Coffee Break Essay



 『母の血を遡上する』 ― 米良家三五〇年を訪ねて



 東京高輪の泉岳寺といえば、赤穂義士ゆかりの寺としてあまりにも有名である。だが、その泉岳寺の裏手に、義士切腹の地があることは、ほとんど知られていない。

 泉岳寺の裏、二本榎通りを挟んだ向かいに近代的な高層アパート、都営高輪一丁目住宅団地がある。隣は高松宮邸である。この閑静な一帯に、かつて肥後熊本藩五十四万石の細川家下屋敷(後の中屋敷)があった。

 元禄十五(一七〇二)年十二月十四日、主君浅野内匠頭の仇を討ち、本懐を遂げた赤穂浪士一党は、大名四家に分散しお預けの身となった。大石内蔵助以下十七名は、この細川家に預けられた。

 元禄十六年二月四日午後二時、幕命を帯びた使者により、切腹の申し渡しが行われ、即日執行された。

「切腹仰せ付けられ候段、有り難き仕合せに存じ奉り候」大石内蔵助の口上である。

 家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は、十七人の切腹人に対し、十七名の介錯人を選定した。切腹の場所は、大書院舞台側の上の間の前庭で、背後に池を背負った場所だった。この都営アパートの奥まった一画である。

 うだるような暑さの中、さんざん歩き回った私は、やっとの思いで「大石良雄外十六人忠烈の跡」と記された案内板を見つけていた。

 そこは鬱蒼とした潅木に覆われており、私はその木陰で吹き出る汗をぬぐっていた。切腹の場所は塀で囲われ、正面には木製の門扉がある。門扉の隙間から恐る恐る中を覗くと、すぐに大きな平石が目に留まった。この一画だけ時間が止まっているような錯覚にとらわれた。無数のセミの声が、頭上から絶え間なく降り注いでいた。

 真っ白い幔幕が張りめぐらされ、切腹の座には三枚の畳が敷かれた。畳の上には木綿の大風呂敷が展べられている。切腹刀を手にした白装束の義士の斜め後方に、緊張の面持ちで介錯人が控えている。すでに抜き身の太刀を上段に構え、切腹人の挙措に神経を研ぎ澄ましている。次の瞬間、鋭い閃光がきらめいた。

 潅木の梢の上には九月の青い空が広がり、強い残暑の陽射しが艶やかなクスの葉を照らしていた。首筋を汗が伝う。冷たい汗だった。この平石の位置が、義士切腹の座にあたる。

 切腹終了後、「切腹の庭を清めましょうか」という家臣の伺いに、

「忠義の者どもの聖地である。清めるには及ばない。……十七人はこの屋敷の守り神である」

 細川家で浪士の接待に当たっていた堀内伝右衛門が、藩主綱利の言葉として伝えている。

 綱利は討ち入り直後の浪士引渡しに際し、総勢八七五名の家臣と十七挺の駕籠と予備駕籠五挺を用意させた。一行が屋敷に到着したのは、午前二時を回っていた。深夜にもかかわらず、即夜の引見を行った。一党の「忠」「義」に対し、武士としての「礼」をもって応えたのである。その後も細川家は、大藩の威力と識見をもって、義士たちを優遇した。

 この十七名の介錯人の中に、米良市右衛門という人物がいる。泉岳寺発行の小冊子に、今もその名が窺える。市右衛門は堀部安兵衛の父、堀部弥兵衛金丸の介錯を務めた。

「雪はれて思いを遂ぐるあした哉」

 武士(もののふ)の気概横溢する弥兵衛七十七歳の辞世である。義士最年長であった。

 この米良市右衛門が、私の母方の祖先にあたる。蝉時雨の中で佇みながら、三百年の時を経、やっとこの地にたどり着いた、という安堵にも似た思いに包まれていた。

 私の大叔父(母方の祖母の弟)、米良周策の家の神棚から、古文書が出てきたのは昭和三十八年のことである。周策の父親は昭和八年に亡くなり、兄もまた太平洋戦争に招集され、抑留先のシベリアで果てている。米良家には、女は神棚に触ってはいけないという家訓があり、神棚は数十年もの間、放置されていた。

 昭和三十三年、私の曾祖母が亡くなった。続いて祖父が脳溢血で倒れ、その看病をしていた祖母がこれまた急死。周策にとっては、母親と姉を相次いで失ったことになる。たて続けの不幸に、これは何かあるに違いないと、神憑りの婆さんの神託を仰いだ。

 お告げは、謎めいていた。

「獣を殺める者がいる。倒れている。それは壁にくっついている。だから悪いことが起きたのだ」

 と何とも要領を得ない。みな頭を抱えた。家中探したが見当がつかない。そうしているうちに、米良家に何年も開かれていない神棚があることに気がついた。

 恐る恐る開けてみると、中から真白いキツネが二体と古文書、それに細川家の家系図が出てきた。

 神棚は壁にくっついている。中から出てきた二体のキツネのうち、雌が倒れていた。周策は、町役場に勤めるかたわら、狩猟を行う。お告げが解けた、というわけだ。

 その神棚から出てきた古文書に、堀部弥兵衛の介錯にかかわる記述がみつかり、北海道の片田舎に大きな騒ぎが巻き起こった。このとき私はまだ三歳で、この騒動の記憶はない。

 私は数年前から趣味でエッセイを書いているのだが、たまたまこの話をネット上で公開していた。それを読んだ熊本の史家のK氏が、自身のホームページで、札幌にいる大叔父の消息を問いかけた。すると、電話帳のソフトをもっているという人が現れ、札幌在住の二名の米良姓の住所の提供を受けた。さっそくK氏は、私のエッセイを添えて問い合わせの手紙を出した。その一通が、周策の次男の元に届いた。長男は電話番号を公開していなかった。

 次男から長男のもとにいる周策に手紙が転送され、再び大騒ぎが巻き起こった。

「うちのことをことこまかに知っている小山次男という人物は、一体何者だ」ということになったのだ。

 周策は、知りうる限りの自分の姉たち(ほとんど他界している)の子孫に電話をかけた。

 判事を退官した甥が、

「個人の情報を無断で公表するとはもってのほか、法的手段に訴えるべきだ」

 と息巻いた。だが、小山次男なる人物が誰なのか、一向にわからない。最後に、実家の母のもとに電話がきた。母は周策の姪にあたる。母から私のもとに電話があった。

「あんた、小山次男って知ってるかい」

 ストレートな母の問いかけに、意表を衝かれた私は、それはオレだ、と素直に認めた。母は私がエッセイを書いていることを知っていた。だが、ペンネームや会社のホームページでエッセイを公開していることは、明かしていなかった。気恥ずかしさがあったのだ。

「なにー、ケンが書いだってか。たいしたもんだな」

 驚いた周策も、私の文章に感激してくれていたようである。

 八十二歳の周策は、体が思うように動かない。長男も忙しさに紛れてK氏への返答を出しそびれていた。そんなある日、今度は会社を経由して東京の近世史家のS氏から、問い合わせが舞い込んだ。

 S氏との親交は、ここから始まった。S氏は熊本のK氏のこともご存知で、私のエッセイをK氏に紹介したのもS氏であった。現代の歴史研究家は、インターネットを駆使し、密接に情報の交換をしていた。後日連絡をとったK氏によると、S氏は赤穂浪士の研究では他の追随を許さない方との賛。義士切腹の地の訪問も、このS氏から教えてもらって実現したのである。

 S氏の後ろ盾を得た私は、本格的な米良家の資料探索を開始した。まず、米良家から昭和三十八年に出てきた三種類の古文書を借り受けた。ひとつは、一九〇ページにおよぶ細川家の系譜である。あとの二つは、米良家の由緒を書いたものと過去帳の写しで、後日、「米良家先祖附写」、「米良家法名書抜」とS氏に名を付してもらった。いずれも江戸期から明治初年にかけて書かれたもので、素人には読み下すことができない。S氏はその文書の翻刻と現代語訳を引き受けてくれた。

 さらにS氏は、この二通の古文書をもとに系譜を作成した。寛文七(一六六七)年に死去した初代から、明治三(一八七〇)年に家督を相続した十代目までのものである。十代目以降は空白になっていた。

 そこで再度米良家に問い合わせると、除籍簿が三通あるという。除籍簿とは、死亡や結婚などで除籍され、カラになった戸籍簿のことである。

 米良家にあった除籍簿は、曽祖父である四郎次(周策の父)が明治二十二年、熊本から屯田兵を志願して北海道に渡り、その後浦河に本籍を移してからものである。そこで、曽祖父を遡るべく札幌市と熊本市に除籍簿の請求を行なったが、八十年という保存年数の経過により、すでに処分されていた。

 だが、この三通の除籍簿により、十代目以降の空白が埋まった。周策は十四代目であり、高校生の孫は十六代目にあたる。米良家三五〇年の歴史が、初めて一本の線でつながった。大名家ならまだしも、下級士族(三百石)でここまで判明するケースは稀だという。

 この調査の過程で、もうひとつの発見があった。S氏と連絡を取り合うようになってから、何度か、米良亀雄なる人物が家系にいないかと訊かれていた。もちろん誰も知る者がいない。今回、除籍簿を手繰っていて、周策の伯父が米良亀雄であることが判明した。

 さっそくS氏に報告すると、

神風連の乱で戦死した米良亀雄という人物が市右衛門の末裔では、という私の推定は当たっていた」という興奮気味のメールが返ってきた。

 神風連の乱とは、明治九(一八七六)年に熊本市で勃発した新政府に対する士族の反乱である。亀雄とのつながりが明らかになった夜、S氏は自身のホームページで米良亀雄について触れている。

 墓は熊本市本妙寺常題目墓地にあり、名は「実光」という。神風連の乱では熊本鎮台歩兵営(熊本城)を襲撃して奮戦したが、弾丸により重傷をうけ、岩間小十郎宅に退いて、立川運、上田倉八、大石虎猛、猿渡常太郎、友田栄記らと共に自害した。二十一歳のことである。

 この亀雄さんの墓を捜索した熊本の史家故荒木精之氏は、亀雄さんの墓を見つけた感想を、自著『誠忠神風連』において二首の和歌にしている。

 藪をわけさがせし墓のきり石に 御名はありけりあはれ切石

 まゐるものありやなしやは知らねども 藪中の墓見つつかなしえ

 荒木氏は、漸くに墓を探し当てた。参る人の誰もいない墓が藪の中にあって、何とも悲しい情景である、と結ばれていた。

 残念ながら、私にはこの「神風連の乱」に関する知識がなかった。かろうじて士族の反乱として、受験時代にその名を記憶していただけである。この神風連の乱を前後し、各地で不平士族の反乱が多発している。最後は、明治十年の西南戦争であった。


 さらにS氏によれば、この米良亀雄の叔父市右衛門(のちの左七郎)の「戦死」と記されている年号と、西南戦争が符合するというのだ。

 帯刀が禁止され、断髪令が下り、俸禄までも召し上げられ、丸裸にされた武士たちが暴発したのである。そんな時代の荒波に、私の曽祖父たちも翻弄されていた。

 今回の探索で私が興味を覚えたのは、それまで全く伝わっていなかった曽祖父の足取りが、わずかながら確認できたことである。それまで曽祖父を知る人も、資料も何も残されていなかった。思いもかけない除籍簿の出現により、その本籍の変遷と家族の生没によって、曽祖父の足跡を垣間見ることができた。

 曽祖父米良四郎次は、今からちょうど一四〇年前の慶応二(一八六六)年に熊本で生まれ、兄亀雄が自害した年に、わずか十二歳で家督を相続している。父親を五歳、弟を七歳、そして母親を十四歳で失っている。兄亀雄が家督相続する以前、先に父親から家督を継いでいた叔父(左七郎)から、数年で亀雄に家督が移っている。ここからも明治初年の混乱が窺える。

 熊本藩に残る『細川家家臣先祖附』は、細川家が家臣に命じて由緒書を提出させたもので、現在、原本は永青文庫(東京目白台の細川家下屋敷跡地にあり、細川家の歴史資料、文化財を保存。現在の理事長は、細川藩主家十八代当主で元首相の細川護煕氏)の所蔵となっている。『米良家先祖附写』は、細川家に提出した由緒書の写しであり、代々加筆され明治三年七月の左七郎の筆で終わっている。

 武士の時代は完全に終わっていた。だが、彼らにはその現実が受け入れられなかった。時代の残滓の中で、過去の幻影にしがみついて暮らしていた。だが、そんな生活にも限界があった。武士の気概を持ちながら生きる、その最後の手段が屯田兵だった。

 屯田兵制度の発足は、明治七年である。北方警備と北海道の開拓を目的とし、時の開拓使次官の黒田清隆の発案により、札幌の琴似を皮切りに入植が開始された。興味深いのは、屯田兵制度の創設の発端が、西郷隆盛の建議によるものだったことだ。当初、西郷は屯田兵の司令官を希望していた。その後下野し、西南戦争の首謀者となる。周りから担ぎ上げられたとはいえ、西郷もまた旧時代の人であった。

 新天地を求めて、開拓団に加わる者がちらほら周りに現れてきた。北海道には広大な手つかずの土地が豊富にあり、開墾しただけ自分のものになる。しがらみも何もない土地で、再出発しようじゃないか、と呼びかける人もいた。聞こえてくるのは、夢のようないい話ばかりだった。

 明治二十二(一八八九)年、二十四歳の四郎次は二歳年上の妻ツルと三歳の長男義陽、それと生後七ヶ月の長女榮女を伴って熊本を発った。

 当時の交通状況からすると、陸路は考えられない。幼子を抱えていたこともあるが、四郎次は刀剣、甲冑などの武具はもちろん、藩主から拝領した代々の品々に加え、夥しい数の家伝の文書を携えていた。開拓団を乗せた船に同船したものと思われる。それは二度と再び故郷には戻れない旅だった。

 旅立ちを前にした慌しい日々の中、四郎次は菩提寺の宗岳寺へ出向いた。先祖代々の墓を持って行くことは叶わない。宗岳寺にいくばくかの寄進をし、墓守を菩提寺の僧侶に託した。当主として、せめて祖先の証しだけでも持って行きたい。厳しい残暑の中、吹き出す汗を拭いながら、ひとり静かに過去帳を写しとった。

 津軽海峡を通過したころから、空気が一変した。九月中旬、不安と期待の交錯する中、四郎次一家はついに北海道に降り立った。上陸した彼らが真っ先に目にしたものは、すでに色づき始める山々の紅葉であった。

 札幌までの道中が思いのほか長かった。雑木林の間から、マッチ箱のように建ち並ぶ兵舎の屋根が見えてきた。どの家も細い筒を持ち、そこから白い煙が立ち上っている。生まれて初めて目にする煙突だった。札幌郡琴似村大字篠路字兵村六十五番地、そこが新たな生活の拠点であった。

 引越しの荷を解く間もなく、初雪を見た。長旅の疲れと、想像を超える寒さに、幼い子供たちが次々高熱を発した。夢のような生活を聞かされていた妻ツルにとって、現実はあまりにも厳しかった。こんなはずではなかった、という悔恨の思いが胸に去来する。涙を流さなかった日はなかった。

 南国で生まれ育った者が経験する、初めての長い長い冬だった。当時の耐寒設備は、きわめて劣悪だった。

 明治三十七年、屯田兵制度が廃止される。四郎次には十八歳になった義陽を筆頭に、五人の子供がいた。

 明治四十五年、四十七歳の四郎次は浦河に本籍を移している。国有林の監視員の仕事を得、転居したものと思われる。

「外出の時はいつも刀を提げていた」

 現在、浦河に住む大正九年生まれの大叔母キクが、幼いころの父親の姿として記憶している。現在存命する四郎次の子は、周策とすぐ上の姉キクの二人だけである。

 だが、このキクの記憶は、幌泉郡での記憶だった。札幌を出た四郎次は、直接浦河に入ったのではなく、現在のえりも町の外れの集落にいた。そのあたりのいきさつは、深いベールに包まれている。当時、田舎の警察官と四郎次だけが帯刀を許されていた、とキクはいう。ヒグマの出没する危険な地域でもあった。

 四郎次は、六十八歳で他界している。かねてから自分の出自が気になっていたキクが、米良家の除籍簿を取り寄せた。私が米良家から借り受けたものである。

 除籍簿で見る限り、四郎次には少なくとも十三人の子がいる。そのうちの五人が本妻ツルの子で、あとの八人は妾の子であった。私の祖母も含め、周策もキクも妾の子であった。この妾が私の曾祖母チナである。今回、除籍簿を手繰って、初めて私はその事実を知った。

 四郎次とチナとの間の最初の子は、屯田兵制度が廃止された翌年の明治三十八年に生まれている。

 チナの本籍は、幌泉郡大字歌別村番外地とあり、昭和三年に四郎次の戸籍に入籍した時点では両親がすでになく、チナ自身が戸主となっていた。二十歳で一人目の子を生んだチナは、四十三歳で四郎次の戸籍に入籍している。四郎次との年齢差は二十歳で、長男の義陽と同じ歳であった。

 四郎次の除籍簿には、本妻やその子、孫、さらに、後妻とその子らが加わり、十八名が名を連ねている。この除籍簿を見る限り、本妻を含めその子らも複雑な人生を歩んでいる。

 若くして死んで行く子供たちの届出を、四郎次が行っている。ツルの死は大正十四年で、この届出は同居の義陽が札幌で行っている。ツルの死亡住所は、長女榮女の二人目の夫の所在地である。この榮女は、十歳で養子先から復籍している。

 昭和五年に死亡した義陽の死亡届は、四郎次の手により網走郡美幌町に届けられている。義陽夫婦には子供がいなかった。榮女の後夫との間に生まれた女子が、義陽の養女となっているが、義陽の死にともない、わずか一年で養子縁組を解消し、四郎次の籍に復籍している。義陽の嫁は翌年、青森の実家の籍に戻っている。

 次女照も二人目の夫と離婚し、その後三人目の夫も亡くし、結局、東京で死んでいる。

 次男、三男の存在は、この除籍簿ではわからない。長男の次がいきなり四男となっているためである。このひとつ先の屯田兵時代の除籍簿がないのが残念である。札幌市西区役所によれば、平成七年に除籍簿が処分されているという。西区の戸籍係は、札幌全域で除籍簿の探索を行ったが、もはやどこにも存在しなかった、とわざわざ電話をくれた。あと十年早くこの作業をしていれば、と悔やまれてならない。

 とにかく複雑に戸籍が錯綜している。それはそのまま複雑な人生を現している。本妻ツルの子たちは不遇な境遇のもと、次世代に米良姓を残すことなく去って行ったものと思われる。

 だが、気になることがひとつある。熊本のK氏のもとに寄せられたもうひとつの札幌の米良姓の存在である。四郎次の次男、三男は夭折したのではなく、その子孫が生き継いでいるのではないか、という思いが頭を掠めた。

 四郎次の死後、残されたチナや未婚の子供たちは、生活に窮した。すでに嫁いでいた娘アキ(私の祖母)のもとに同居することになる。アキの夫は隣町の様似郡様似町で銭湯を営んでいた。娘たちはそこから嫁ぎ、兄は出征して行った。

 大叔父周策は十三番目に生まれた末っ子で、父親が五十九歳の年の子である。六人いた男子の中で、ただひとり後世に米良姓を伝える存在となっている。だが、この大叔父も太平洋戦争では九死に一生を得ている。

 ゼロ戦に乗って出撃したのだが、途中エンジントラブルで南洋に着水し、漂流しているところを米戦艦に拾い上げられ、終戦を迎えている。

 それぞれが時代の困難に遭遇しては、奇跡ともいえる幸運に助けられ、米良家は今日まで続いてきた。そこには、いくつもの「もし……だったら」が折り重なっている。

 家督相続においても、四代目、六代目は養子である。六代目の子の有無は定かではないが、五代目の娘を五代目の弟の子に嫁がせ七代目とし、急場を凌ぎながら米良の血を濃くしている。また、明治三(一八七〇)年から四郎次が家督を継ぐまでの七年の間に、三名の当主が次々と亡くなっている。四郎次の家督相続年齢が十二歳であったことを思うと、いかに大変な時代であったかが窺える。

 現代の尺度からすると、四郎次の行動は理解に難しい。だが、それぞれが生きた時代がある。「そんな時代だったんだよ」という、諦念にも似た結果論で強引に括るしかない。だから、もしこの曽祖父が妾を作っていなかったら、米良家の存続はなかったろうし、私自身も存在しなかったことになる。

 古文書を眺めていると、その時代を生きた人々の様々な人生模様が浮かび上がってくる。その事実に光を当ててやることが、不遇にして死んでいった者たちへの鎮魂につながる、と私は信じている。

 米良家の資料を探索し始めたころ、熊本のK氏からS氏を通じて史家らしい問い合わせがあった。素人にはきわめて難解ではあるが、興味深い質問である。

「肥後の名家である菊池家は、菊池義武の代に宗家は断絶しております。義武の大叔父、菊池国重が日向米良に移り、米良氏を称しました。

 国重の四代孫の(米良)重隆の代より、寄合交代衆として将軍家に参府拝謁しています。幕末の当主米良則忠は、勤皇の行動を起こし、子武臣は維新後、菊池氏に復姓し華族(男爵)に列しました。

 米良氏は、肥後人吉・相良藩の付庸という身分でしたが、なぜ寄合交代衆の家格を得たのか大変疑問に思うところです。

 市右衛門家の米良氏の出自は如何なるものでしょうか。日向米良氏とのつながりなどもし分れば、ご教示頂けると幸いです」

 日向米良家との関連の問い合わせであった。

「なんじゃそりゃ。自分の兄弟のこともよく分らないのに、そんな難しいことわがるわけないべぇ」

 十四代周策の弁である。

 K氏の問いかけは、我々が初代と考えている米良家の祖先の、さらにその先の存在を示唆するものである。

 そこで私は、K氏が把握している北海道の米良姓の提供を受け、調査の手紙を出した。四郎次の系譜を同封し心当たりを訊ねたのである。

 札幌の二件を含む七名の米良姓のうち、二件は宛先不明で戻ってきた。一人から回答を得たが、私の家系とは直接の関係はなかった。だが、その回答は興味深いものだった。

「私は、米良一族の本家、熊野別当家、実方院の直系です。先祖の姓は昔から米良ですが、呼び名は熊野別当何某と呼ばれておりました。私どもの古文書では、米良、妻良、目良は、一族なりと記されています。

 九州の米良につきましては、過去に宮崎の西米良で調査したことがありますが、詳細は不明でした。ただ、熊野水軍の一部が九州に住みついた経緯や、島津家との家紋争いの後、監視役として一族の中より九州に住みついた者もおり、その流れの中に、九州の米良姓が存在するのではないかと考えております」

 上川郡標茶町の米良氏の回答なのだが、この内容は、K氏の質問にあった肥後の菊池家のさらに先を示唆するものである。この米良氏は、いわば、米良家の源流の子孫の方であった。

「熊野別当家の米良氏とは恐れ入りました」

 K氏も驚いておられた。

 ここまでくると、さすがにお手上げである。あとはこの文書を目にしたその道の専門家に委ねるしか方法がない。

 あるとき、たまたま赤穂事件関係の本を眺めていて、「栗崎」という姓が目に留まった。私はハッとして除籍簿をめくった。四郎次の次女照が昭和三年に嫁いだ相手が「東京市本所区柳島梅森町二十六番地の戸主、栗崎近之助」とあった。ドキリとした。

 この本は以前にS氏から頂いたもので、野口武彦著『忠臣蔵―赤穂事件・史実の肉声』(ちくま新書)である。最初この本を読んだときは、除籍簿の入手前だったこともあり、栗崎の記述は読み過ごしていた。

 吉良上野介が、江戸城松の廊下で浅野内匠頭に斬りつけられた際、御典医の栗崎道有が上野介の手当に当たった。当時道有は、当代随一の外科医と称される南蛮医である。

 インターネットで検索してみると、この松の廊下事件後も、道有はしばしば本所の吉良邸に出向き、上野介の予後の処置を行なっている。「栗崎」というそれほど一般的でない姓と、本所という共通の地名に、栗崎近之助が道有の子孫ではないかと先走ったのだ。

 S氏にそのことを伝えると、早速に返信が届いた。

栗崎道有は、幕臣として江戸幕府が編纂した『寛政重修諸家譜』(かんせいちょうしゅうしょかふ)という系図集にも載っています。しかし、これ以後の子孫について、私は詳しい情報を持っておりません。道有は、伝来の文書も手放したらしく、現在は東京大学附属図書館にあります。

 栗崎の墓は吉良と同じ中野区上高田の昌院功運寺にあって、御子孫が建てた卒塔婆がありました。施主としてご子孫の名前があったように思います」

 S氏の該博ぶりには、改めて舌を巻く。S氏はお寺を訪ねていた。

 さらに検索してゆくと、栗崎家が代々長崎で開業し、道有自身も長崎から上京していることがわかった。長崎といえば、有明海を挟んだ対岸が熊本である。道有の末裔の栗崎道隆氏が、熊本市本山町で医を生業としている、という記述があった。四郎次の熊本での居所は島崎村で、本山町との距離はわずか数キロである。元禄期の米良市右衛門の居所は、今の熊本市役所付近の手取で、本山町とはさらに距離が近くなる。

「この道隆氏のご令姉トキ氏は東京女高師の出身で、森山辰之助氏(前青森県師範学校長)夫人となり、『婦女新聞』の長い愛読者だったが、昭和十二年春、他界された」という記述をインターネットで見つけた。この記述が正しいとすれば、道隆氏の生まれは明治中期以前と推測できる。四郎次と同世代の可能性もある。ここで熊本≠ニいう、新たな共通のキーワードが加わった。

 だが、私がドキリとした最大の根拠は、四郎次が自分の娘たちを次々と看護師(当時の看護婦)にしていたことである。当時の田舎のこととしては、とても珍しいことだった、と祖母アキの言葉として母が伝えている。現に照のすぐ下の妹ハルは、医者に嫁いでいる。栗崎近之助が医者だったとしたら、その確証はいよいよ深まることになる。

 ここまで共通点がそろってくると、近之助が道有の子孫ではないかと思いたくなる。熊本での四郎次と栗崎家との接触は、じゅうぶん考えられる。熊本の米良家では、道有と上野介の関係のことは、もちろん承知していたはずである。問題は、北海道に渡ってからの四郎次との接点である。たとえ道有とは無関係な栗崎家だったとしても、娘の照を東京の本所に嫁がせているのは事実であり、東京と北海道の片田舎との間に、何らかの接点が存在していたことになる。

 これまでの私の推測が事実だとすると、吉良上野介の手当てに当たった医者の末裔と、その上野介の首を討ち取った一党のひとり、堀部弥兵衛の介錯を行った米良市右衛門の子孫とが、二二五年の時を経て再びめぐり合ったことになる。私の血がふたたび騒ぎ始めた。

 栗崎道有は、その後上野介と二度目の接点をもっている。赤穂浪士に討ち取られた上野介の首は、その翌日に泉岳寺にから吉良邸に戻っている。その首と胴体を縫合したのが道有である。道有は首だけではなく、ほかの刺し傷も丁寧に縫い合わせている。上野介の亡骸は、牛込の萬昌院に葬られた。道有自身の墓もこの萬昌院にある。

 大正七年、牛込の萬昌院は中野区上高田の功運寺に合併された。そのとき上野介も道有の墓も功運寺に移されている。その時、上野介を納めた瓶棺は、無傷で掘り出されている。

 先日S氏から、思いもかけないお誘いのメールを頂いた。堀部安兵衛のご子孫にお引き合わせ致しましょう、というのである。私は思わず身を乗り出した。

 米良家の名代として、どんな口上を述べようか。あれこれと考えあぐねた。

「元禄十六年の切腹の節は、御役目とはいえ貴殿の父上の首を刎ね……どうも済みませんでした」というのもおかしい。かといって「見事な最期でありました」と適当なことをいうわけにもいかない。どうしようか思い悩みながら、ワクワクした。大叔父にもこの報告をしなければならない。待ち合わせの日程まで決めていたのだが、土壇場で都合が悪くなり、三〇三年ぶりの再会は頓挫した。

 真実を求め歴史を掘り下げてゆくということは、過去からほんのわずかに顔を出している糸の端をたぐってゆくようなものである。この糸は、いわば縁≠ナある。その人と人とのつながりを丹念にたどってゆくと、人間の喜びや楽しみ、そして夥しい悲しみと苦しみがまとわりついてくる。思いもかけない発見があり、予期せぬ人と遭遇する。そして掘り下げたその糸の先は、いつの間にか未来につながっている。

 堀部安兵衛のご子孫との再会は、高輪の切腹の座がふさわしいだろうと勝手に決め込んで、次の機会を心待ちにしている。さて、なんと挨拶したらよいものかと、今から頭を悩ませている。

                    平成十八年五月 立夏  小 山 次 男