Coffee Break Essay





 『米良繁実とシベリア抑留』



(四)

5 シベリア抑留帰還者の証言


 雑誌「文藝春秋」昭和五十七年臨時増刊号は、シベリア強制収容所体験者四七四名の手記の特集である。シベリア抑留というものがどのようなものであったか、ごく一部ではあるがその手記を抜粋する形で紹介しておく。

 

 樺太や千島で終戦を迎えた日本兵は、日本へ連れて行くというソ連側の申し出を受け、船でシベリアへ運ばれた。そこから有蓋貨車でシベリア内陸部へと連行される。中国大陸で武装解除を受けた兵も、ほぼ同じ道筋をたどった。

 

「私は中千島のウルップ島で終戦を迎えた。ソ連兵が島へ上がってきたのは、九月も上旬を過ぎてからだったと思う。十月に入ると千島は冷酷な冬が忍び寄ってくるのが感じられる。厳冬の近づくのに脅えていると、ソ連いわく、日本は戦争に敗けて船は一隻もない、と言ってもここでは無装備では越冬出来ない。凍死を待つばかりの日本兵は気の毒で見るにしのびないから、ソ連が船を貸して東京まで送ってやろうと思うがどうか」

 そう言われた日本兵は、それまでソ連共産党に対する歪んだ偏見を悔い、心から彼らに感謝する。だが、それは日本兵を連行するための言葉巧みな罠であった。

「大泊の沖を過ぎた頃から日本兵は船倉に密閉された。船は全速力で走った。もう房総半島の沖合かも知れない。東京は間近いと噂していると、急に船のエンジンはスローダウンした。甲板に上ってもいいと許可が出た。景色を見てびっくりした。進行方向の左舷に見たこともない景色が、百メートルもあろうか、黒赤茶けた断崖の上に枝が垂れ下がったエゾ松、トド松の見事な林。東京ではない。シベリアである。騙されたと気がついた時はもう遅かった」(奈良県天理市 芝太七 七十歳)

 

「幅約五メートル、長さ約十五メートル、鉄格子の小さな硝子窓のついた有蓋貨車。これが私たちの獄舎だ。貨車の中程の両側に、頑丈な引戸の扉がある。その片側の扉は約三十センチほど開かれ、その隙間の下の方に木製の排水管便所が斜めに差しこまれている。もちろん、それから上の隙間は厚い板でしっかりと塞がれている。この獄舎の囚人は七十二人。(略)五メートル幅の場所に人間が何人寝られるか。せいぜい十二、三人だ。それも仰向けでは無理だ。体を横にして、隣と頭と脚を組み違いにし、隣の者の足の裏を嘗めながら、刺身になって寝るわけだ。上下二段で約二十四人。残り十二人は寝る場所がない。だから三分の一は常に、貨車の冷たい壁を背に、じっと立って交代を待つ。寒い。零下三十度のシベリアの真っただ中だ。火の気は全然ない」(宮崎県日南市 持原青東 六十四歳)

 

 貨車を降りてからは、野宿をしながらの死の行軍とソ連兵による略奪が待っていた。

「(ソ連兵は)既に奪った時計を二個も三個も腕に巻いている奴もいる。時計の次は万年筆や安全剃刀、ライター等、手当たり次第に奪う。こうして、一日に二回ないし三回の略奪が日課の如くくり返された。略奪する品物も革製品(図のう、皮帯、長靴)や外套、上衣など着用しているものにまで及んできて、長靴を奪われた将校は、代わりの靴をみつけるまで裸足で歩くはめとなり、足から血が滲んでいた」(大阪府大阪市 松井喜一郎 七十四歳)

 

 ラーゲリー(収容所)に着いた彼らを待っていたのは、苛酷な労働であった。主な労働は、木材の伐採・運搬、石炭の採掘・積み込み、鉄道建設などといったものである。シベリアの鉄道の枕木一本が、一人の屍であるといわれている。朝暗いうちから、夜空に星が瞬くまで、気力、体力の限界を超えた労働に明け暮れた。

 北極圏内に収容された三重県楠町の森川正純氏の体験した最低気温は、昭和二十五年十二月の氷点下七十四度で、夏でも地下三十センチないし一メートル下は凍土だったという。また、中京大学理事長の梅村清明氏は「私がいたゴーリンあたりでは、十一月から三月半ばまので真冬には、マイナス七〇度まで気温が下がるんです。零下二〇度だと、体がチクチク痛くなる。三〇度から四〇度になると痺れてくる。ところが、四〇度を以下になれば、もう無感覚です。寒いという感覚も、働かなければという意識もすべてなくなって、何も考えられなくなってしまいます」と述べている。

 「寒い」という言葉を超越した極寒の中で、与えられた食料は黒パン一枚とカーシャという雑穀のお粥である。お粥といっても、穀粒もキャベツや馬鈴薯のかけらもない、ただ白く濁った塩汁であった。

 

「ソ連ではありとあらゆる作業にノルマがついている。我々の仕事は勿論、何メートル道を掘り返すと何パーセントと計算されるのである。標準が一〇〇パーセント、その以下が八〇パーセント、最高が一二六パーセントである。勿論その労働量によって食事が違ってくる。最高の一二六パーセントをあげた者は、最上の食事にありつける。例えば米についていえば、かたく炊いたご飯と六〇〇グラムの黒パンにありつけるのである。最低の八〇パーセントの者は、お粥に三〇〇グラムの黒パンだけであった」(東京都板橋区 円斎与一 七十四歳)

 

「食べるといえば自分の大便も食べた。コウリャンは消化が悪く大便の中にそのまま出てくる。これを布に包んで河で洗い、コウリャンだけ取り出し、缶詰の空缶に入れて火で炊いて食べた」(大阪府富田林市 竹山竹次郎)

 

 極寒での酷烈を極めた労働と、あまりにも粗末な食事は、極度の栄養失調をもたらした。加えて、ノミ、シラミ、南京虫などが彼らを悩ませることになる。

「朝八時、交代要員がきてやっと作業から開放される。収容所に帰り朝食を摂ると、体を動かす力もなく、そのまま横になる。部屋が寒いので外套も帽子も付けたまま崩れるように寝てしまう。脱ぐのはカチカチに凍った靴だけである。次の作業呼集は二十二時、それまでは食事以外起きることなく、大方の者は死んだように横になっている。何人か元気な者は起き、増え続ける虱(しらみ)を退治する。シャツを脱いで窓際に寄り、薄明かりをたよりに透かして見ると、米粒ほどの柔らかい奴が無数に這い回っている。一匹一匹つぶしていても捕りきれるものではない。寒さを我慢し三十分ほど屋外にさらしておくと、虱は雪片のように白く凍って動かなくなる。そのシャツをパタパタと打ち振ると大きな虱はポロポロと落ちるが、卵や縫目に付いた奴はなかなかとれない。寒さには克てないので、そのまま着ていると、二、三日で大きくなり、防寒外套の襟元まで這い出してくる始末だ。虱は全員に湧いていた」(福岡県久留米市 堤善行 六十歳)

 

 このシラミを媒介とする伝染病が、発疹チフスである。四十度前後の高熱とともに、激しい下痢に襲われる。

「シベリア栄養失調には二通りの型がみられた。尻の肉がそげ落ちると、そのため肛門が外に飛び出し、歩行困難に陥り足元が定まらず、背中を小指で押せばがくんと前につんのめるようになるもの。もう一つは全身が土左衛門のようにぶよぶよにふくれ上り、防寒帽でうら成りかぼちゃを包んだようにどす黒い顔をしているもの。そして、両者に共通しているのは、頭髪が抜け歯ぐきが真黒になることだった。餓鬼道に陥ちた亡者のごとく口に入るものは何でも口に入れたがった」(大阪市 長岡喜春 五十二歳)

 

「作業に行く途中、落ちている馬糞を拾い上げ、消化されていない麦の粒を拾い出しうまそうに食べている者がいた。(略)重度の栄養失調から、歩きながら大小便を垂れ流している兵士もいた。肛門や尿道などの括約筋がその機能を失ったのだ。自分でも意識せず下痢便を垂れている。その近くで唇に締りがなく涎を流して見ていた兵が、突然蹲(かが)んで、その下痢便の中にある草の根のような物を、己れの口の中に入れた。なんという悲惨さ、『生きて餓鬼道に陥る』。まさにこの世に生き地獄が出現したのである。シベリアにおいて多くの日本人が奴隷以下の取扱いを受け、生きながら地獄に落とされたのである」(新潟県新潟市 井上三次郎 六十六歳)

 

「死亡者の遺体は、ソ連歩哨の詰所がある棟続きに大きな床のない建物があって、この中に死体を裸にして放り込んでいたのである。死体はすでに『カチカチ』に凍っているから投込むと死体に死体が当り『カラン』と音がする。強く当ると凍っているので、手や足はポキリと簡単に折れた。目は窪み腹の皮は背に張りつき、頬骨は高く目立って全く骸骨の山だった」(新潟市 井上三次郎 六十六歳)

 

「死ぬと可哀想だ。まず衣類を全部ぬがせて真裸にする。死人の衣服を戦友が貰って着るからである。墓穴は非常に小さい。縦五十センチ横六十センチ深さ四十センチの墓穴を掘るのに何と驚くなかれ大の大人が四人掛りで一日必死に掘ってやっと堀り上げるのである。シベリアの冬期間の土は花崗岩のように硬い。力一杯つるはしを打ち入れても大豆の頭ぐらいしか破片が出ずにカンと音をたて、手がしびれてしまうのである。一日十人死ぬと四十人の墓堀り要員が出る。硬直した死人の両足を無理にまげて墓地に入れても、膝のあたりが墓穴上面より出る場合がほとんどである。でも仕方ない、飛び散った土は雪の中に消え、冷たい雪を膝の上まで盛り一巻の終りだ」(埼玉県騎西町 塚越源一 六十一歳)

 

 体力のない三十代、四十代の兵が次々と斃れ、かろうじて生き残ったのは、十代、二十代の若い兵であったといわれている。生き残った彼らに対し、ソ連政府は民主教育と称し、共産主義革命の同調者を仕立て上げるための洗脳教育が行われた。それはまた、情報活動の協力者を確保するという意味合いも兼ねていた。やがて洗脳された兵士によって日本人同士の中での吊るし上げが行われるようになる。この狂気の吊るし上げにより、精神的に追い詰められ命を落として行った兵隊が数多くいた。

 飢えと寒さ、重労働と狂気の民主教育という極限状況の中で、彼らは南下して行く渡り鳥を眺めながら望郷の思いを抱き、ダモイ(帰国)を夢見ながら虫けらのように息絶えていったのである。

 

 平成三年に、ソ連の元首としてゴルバチョフ大統領が初めて来日し、「捕虜収容所に収容されていた者に関する日本政府とソ連邦政府との間の協定」が日ソ間で締結された。このときゴルバチョフ大統領は、ソ連の元首として初めてシベリア抑留の事実を公式に認めたのである。戦後四十六年目のことであった。

 平成五年、エリツィン大統領と細川護煕首相の間で「東京宣言」が採択された。エリツィン大統領は、シベリア抑留を「ソ連全体主義の犯罪」と自ら断罪し、外交史上異例ともいえる謝罪表明を行っている。だがそれ以降シベリア抑留問題は、両国間の政治の駆け引きの間に埋もれ、際立った進展のないまま現在に至っている。

 毎年、夏になるとヒロシマ・ナガサキの日がやってくる。それに先立って、東京大空襲、沖縄上陸戦と死者を悼む行事が新聞やテレビを賑(にぎ)わしている。だが、シベリア抑留死亡者は、領土問題という国家間の政争の陰に隠され、いまだ凍土の下に置き去りにされたままになっているのである。

 米良繁実、享年三十六歳。法名、至誠院実誉勇道居士。菩提寺は父四郎次と同じ、北海道様似郡様似町の等じゅ院(帰きょう山厚沢寺)。独身であった。              了



参考文献

・『戦後強制抑留史(三)』(平成十七年 戦後強制抑留史編纂委員会編)
・『読者の手記 シベリア強制収容所』「文藝春秋」臨時増刊号(昭和五十七年 兜カ藝春秋)
・「シベリア抑留中死亡者名簿」村山常雄ホームページ
・平成三年提供の「ソ連邦抑留中死亡者名簿」(平成三年名簿 厚生労働省)
・平成七年提供の「ソ連邦抑留中死亡者名簿」(平成七年名簿 厚生労働省)
・平成十七年提供のソ連邦抑留中死亡者「個人資料」(平成十七年個人資料 厚生労働省)
・「ソ連邦抑留中死亡者資料に関するお知らせ」(平成二十一年 厚生労働省)
・「軍歴(米良繁実)」(北海道保健福祉部福祉局福祉援護課)
・「米良四郎次除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)
・「米良繁実除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)
・「米良周策家過去帳」(米良周策家所蔵)

 なお、ホームページからの引用は、平成二十一年十一月に制作者である村山常雄氏の承諾を得ております。


              平成二十一年六月 芒種  小 山 次 男

 付記

 平成二十一年十一月 加筆