Coffee Break Essay



 『米良繁実とシベリア抑留』

(三)

 4 無念の死

 厚生労働省からは、平成十七年個人資料のうち、米良繁実に関する部分がロシア語の原文のまま提供された。全訳はできないが遺族が知りたい箇所を部分訳したとする資料には、繁実の死亡に関する詳細が記されていた。後に私は、総務省の外郭団体である財団法人全国強制抑留者協会を通じて、全訳を入手している。

 その中から、繁実のカルテを抜粋し、記載する。

 

カルテ No. 292

姓名  メイラ・シネミ

一九一〇年生まれ    (前部、一部が欠けているので、判読可能な範囲)

??入院  135k  (前部、一部が欠けているため判読不可)

入院日?  二月十一日 (前部、一部が欠けているので、判読可能な範囲)

入院時の所見       肺炎、栄養失調

予見           クループ性両肺炎、栄養失調2度

最終所見         栄養失調3度、クループ性両肺炎

結果           一九四六年二月二十一日、死亡

         (前部、一部が欠けているため判読不可)

 

患者本人の愁訴:

客観的データ:中背

栄養状態:悪く、顔色、青白い

脈拍:正常の律動

:右、乾性ラッセル音、雑音。左、拡張、乾性ラッセル音

打診音:右肺、せわしい

心音:きれい

:柔らかく、無痛

排便:液便、一日一回、出血なし

 1. つぼ治療

 2. 咳止め薬

                         医師  署名

 

二月十一日

体温 38.0

容態、重篤。

 

二月十二日

体温 37.9

咳と右胸郭の半分の痛み。食欲不振。拍動:弱い。診断:右肺の第4肋骨から打診音が鈍化。診断:脇下ライン六、七肋骨辺りに捻髪(ねんぱつ)が聞こえる。舌は、苔に覆われ、便は、液状。

 

二月十三日

体温 36.4度 36.4

容態、重篤。咳と右胸腔、半分が痛むとの愁訴。脈の拍動、弱い。

診断:右肺、第四肋骨から打診音が鈍化。肩甲骨、下部に水泡性のラ音。舌、湿り気あり。排便なし。

 1.右、つぼ療法

 2.薬 1.0% ― 六回

 3.薬 20% 2?  一日三回(薬は、ラテン語)

 

二月十四日

体温 36.0度 39.4

容態、重篤。咳と胸に痛みありとの愁訴。咳と胸に痛みありとの愁訴。心音、鈍い。

診断:右第四肋骨下部の打診音の鈍化。左、肩甲骨下部の音、せわしい。右、第四肋骨から中程度の水泡性及び気泡性ラ音。左、肩甲骨下部の呼、弱い。

 1.右、つぼ療法。

 2.薬 1.0% ― 六回 四時間おき

 3.薬  20% 2? 一日三回

 

二月十五日

体温 39.4度 38.8

容態、重篤。せわしい息づかい。睡眠良好。食欲不振。脈の拍動、弱い。

診断:右、第四肋骨下部の打診音の鈍化。

聴診:右肺全体に捻髪性のラ音。脇下ラインの第八、九、十の肋骨部分には中程度の水泡性ラ音が聞こえる。左、肩甲骨下方、弱々しい息づかい。

舌は乾き、白い苔に覆われている。唇は乾き、かさかさ。腹は柔らかい。排便、二回。液便。

 1.薬 1.0 ― 五回 四時間おき

 2.つぼ療法

 3.薬 20% 3?  一日三回

 

二月十六日

体温 39.5度 39.4

患者の容態、悪化。胸が痛み、咳が出るとの愁訴。呼吸困難。唇にチアノーゼ。脈拍、弱く、心音、鈍い。

診断:同域内の打診音、鈍化。

聴診:右肺全体に捻髪様ラ音。左肺、息づかい弱く、脇下ラインの七、八、九肋骨あたり、捻髪様ラ音。舌渇き、苔に覆われている。舌渇き、苔に覆われている。腹、柔らかく、無痛。排便、五回。液便。

 腹に湯たんぽ

 薬 0.5×三回

 

二月十七日

体温 37.6度 37.0

患者は青白く、衰弱しており、容態は極めて悪い。絶えず、幻覚と昏睡状態に陥る。呼吸困難。唇と手にチアノーゼ。脈拍、弱く、心音、鈍い。排便、液便、八回。

 

二月十八日

体温 36.5度 36.5

肺の状態同じ。容態、極めて悪い。皮膚、青白い。患者は、急激に衰弱。呼吸困難、せわしい息づかい。唇と手にチアノーゼ。患者は、時々、昏睡状態。脈の拍動、弱い。

診断:右肩甲骨中部から下にかけての打診音の鈍化。左肩甲骨、下部の打診音の鈍化。

聴診音:胸腔、右半分全体に水泡性ラ音と中程度の気泡性ラ音。肩甲骨、左側に水泡性ラ音。           舌、苔に覆われ、乾いている。腹、柔らかく、無痛。(一行、字が重なり、判読不可)排便、五回。液便。

 薬 1.0 一日四回 四時間おき

 つぼ治療

20% 3? (脈拍数による)

 薬10% 1? (脈拍数による)

 腹に湯たんぽ

 

二月十九日

体温 36.8度 37.3

容態、極めて悪い。 意識は、朦朧としている。皮膚、青白く、脈拍、弱い。

診断:右(一行、字が重なり、判読不可)。左、肩甲骨中部から下部にかけて、水泡性、及び中程度の気泡性ラ音。舌は、乾き、苔に覆われている。腹は、柔らかく、無痛。排便、五回、液便。

 薬 0.5 一×三

 1.つぼ治療

 2.薬 0.5×三回

 3.薬 0.3×三回

 4.薬 20% 3? 一日三回

 5.腹に湯たんぽ

 

二月二十日

体温 36.7

容態、極めて悪い。患者は、昏睡状態。呼吸困難。唇にチアノーゼ。患者は、急速に衰弱。肋間が、落ち窪み、脈拍、弱い。

診断:両肺に大量の中、小の水泡性、気泡性ラ音。舌は乾き、苔に覆われている。腹柔らかく、無痛。排便、六回、液便。粘液、出血なし。

 

二月二十一日

一九四六年二月二十一日、午前四時死亡。    医師  署名

 

【クループ性肺炎】 クループ(英語croup)とは、声門下での上・下気道の炎症性狭窄に伴う一連の病態のこと。クループ性肺炎(大葉性肺炎)などの病名がある。

 

【ラ音】 肺の聴診をするときに聴きとられる正常呼吸音以外の複雑音をラ音と言う。ラッセル音(独語Rasselgeruschの略。ラッセル音は、その原因となる疾患によって、「ピュー」、「ブンブン」、「ギー」、「バリバリ」などの音質(聞こえ方)がある。ラッセル音には、狭くなっている気管支を空気が通る際に起こる乾性ラッセルと、気管支内部に分泌された液体に発生した気泡が破裂する湿性ラッセルがある。さらに湿性ラッセルは、捻髪(ねんぱつ)音と水泡音に分類される。

 

【つぼ治療】 棒の先に絡めた綿にアルコールなどを浸して燃やし、それで小さな壷型のビンの中にかざして、ビンを真空状態にし、直ちに、それを患部に当てる。すると、ビンが真空状態なため皮膚表面が盛り上がり、体内の毒素が吸引され、血行がよくなる。病院でも、家庭でも広く普及している治療。

 

 

 また、繁実死亡時の所持品は次のとおりと記されている。

帽子      1

外套      1

ラシャの?(略しているため意味不明) 1

ラシャのズボン 1

綿入れ ―

セーター    1

シャツ     1

暖かいズボン下 1

靴下      3

短靴

手袋      1

判読不可    1

毛布      1

日本製コート  1

 

 個人資料には、繁実の死因が、

「第V度栄養失調症およびクループ性両肺炎の診断を受けて一九四六年二月十一日から第三四七五後送病院マスタヴァーヤ分院に入院していた新たな特別人員メイラ・シネマが、一九四六年二月二十一日午後四時に心機能低下により死亡した」

 とある。ここにある「特別人員」とは、「旧ソ連において、戦争や革命で疲弊した産業を復興させるために政府によって安価な労働力として〈徴用〉された、囚人・流刑者・戦争捕虜・抑留者などの特殊な人員を表す」とある。また、別の部分訳には、

「本日、戦争捕虜マイラ・シェネミ――[生年]一九一〇年、[階級]兵、[民族]日本人、一九四六年二月二十一日に第(空欄)収容所第三四七五病院にて死亡――の遺体埋葬が行われた。遺体は、区画番号NO.4、墓碑番号NO.292に埋葬された。墓は第一小病院墓地にある」

 また、埋葬日が一九四六年三月六日と明記されている。

 この資料では、墓の存在にまで触れているが、厚生労働省では墓番号が三桁である事例はほとんど見かけないため、カルテ番号の「292」を誤記したものではないかと推測している。原文では「292」の上二桁「29」の部分に訂正線が引かれていることから、後に三桁目の「2」を書き加えた可能性も考えられなくもないが、詳細は不明としている。

 階級の「兵」については、陸軍では、二等兵、一等兵、上等兵、兵長までが「兵」であり、次の伍長、軍曹、曹長が「下士官」、さらに「准士官」、「将校(仕官)」という序列になっている。繁実の場合、死亡後下士官(伍長)になっているので、この「兵」の記述は正しい。

 また、厚生労働省の調査によると、除籍謄本の「ポートワニ病院」と平成七年名簿の「第三四七五特別病院」の違いについては、「第二収容所・ソフガワニ地区チシキノ居住区」の埋葬地は、チシキノにあった「第三四七五特別病院分院」の埋葬地であり、帰還者の証言によると「第三四七五特別病院分院」は、もと「ポートワニ病院」と呼ばれていた。つまり、「第三四七五特別病院」には本院と分院があり、本院がマンガクト地方に、分院がポートワニにあったということである。なお、この埋葬地については、旧厚生省が平成九年に現地調査を実施しているが、埋葬地の確認には至らなかったという報告をもらっている。

 先に挙げた村山常雄氏は、収容所での病院を三つのカテゴリーに分類している。ひとつは「中央管理の特別病院(スペツゴスピタリ)」、さらに「地方政府や収容所または支部管理の病院(バリニッツァ)」、それと「緊急に開設された小病院」である。

 特別病院は、正式には四桁の数字を冠して呼ばれ、一般民間病院と区別するために特別病院と呼称されている。特別病院は、ひとつの収容所に複数ある場合も多いが、収容所には従属せず、また抑留者の少ないところでは支部や収容所、時には州境をまたぐ広範囲をカバーしていた。当時日本人を収容した特別病院は、おおよそ九十病院あったという。

 また、「地方政府や収容所または支部管理の病院」は、特別病院の間隙を埋める比較的小規模の病院で、特定の収容所や支部管理、またはその附属の病院で、日本人を収容したこの種の病院は約三十二箇所あったと推定している。

 「緊急に開設された小病院」は、先に掲げたバリニッツァと同様なものとしているが、ごく一部にラザレートと呼ばれた病院がある。軍用または野戦の診療所・医務室という意味のようだが、厚生労働省の訳では「医院」「小病院」となっている。この種の病院は大変少ないが、多数の死者を数えるところもあるという。

 村山常雄氏は、独自の調査をもとに四六、三〇〇人の抑留死亡者の名前を漢字に置き換えてホームページで公開しているが、その中に「メイラ・サネミ」という名が確認できる。生年月日や収容所名、埋葬地、死亡日が一致しているので、繁実に間違いないものと思われる(平成二十一年十月に村山常雄氏に資料を提供していたところ、同年十一月に村山氏より連絡があり、各種資料を精査した結果、「メイラ・サネミ」は米良繁実に間違いなく、「メラ・シゲミ」に訂正したとの連絡を受けた)。

 これまでの繁実の情報を整理すると、次のようになる。

 繁実は、昭和十八年五月二十三日、臨時召集のため歩兵第二十八連隊補充隊に応召し、要塞建築勤務第九中隊に編入される。二日後の二十五日には樺太豊原(現在のサハリン州の州都ユジノサハリンスク市)に到着。

 終戦後の昭和二十年八月二十四日、ソ連軍による豊原への軍事侵攻がある。武装解除された日本軍部隊は、集成大隊に編成替えさせられ、ソ連領内の約四十六地区の収容所に移送・抑留される。

 繁実は第V度栄養失調およびクループ性両肺炎で、第三四七五特別病院のムリー第一地区ポートワニにある分院、つまりハバロフスク地方第二収容所ソフガワニ地区チシキノ居住区にある第三四七五特別病院のマスタヴァーヤ分院に、昭和二十一年二月十一日から入院。二月二十一日に心機能の低下により死亡し、マスタヴァーヤ分院附属墓地(区画番号NO.4、墓碑番号NO.292)に埋葬された(墓碑番号は、誤記の可能性が高い)。埋葬日は三月六日である。除籍謄本にある死亡日の三月七日は、一日のずれはあるものの、埋葬日だった可能性が高い。

 また、旧厚生省が平成九年に現地調査を行ったが、墓地の発見には至らなかった、ということである。

 

 戦後、旧厚生省から遺骨の入っていない繁実の骨箱が、様似町で暮らすチナ、周策のもとに届けられた。それは現在、様似町の住吉神社脇にある忠霊塔に納められ、毎年五月十日ころに慰霊祭が行われている。

 繁実は、昭和四十三年八月三十一日、当時の首相佐藤栄作名で勲八等の叙勲を受けている。総理府賞勲局長岩倉規夫、第一二七八四〇七号とある。

 以上が、平成二十年三月から翌年二月にかけての調査で判明した内容である。(つづく)