Coffee Break Essay



 『米良繁実とシベリア抑留』

 

(一)

 曾祖父米良四郎次(めら・しろうじ)の四男繁実は、明治四十四年(一九一一)三月十三日、北海道浦河郡浦河町大字浦河番外地に生まれている。私の祖母アキの弟にあたる。

 繁実は、昭和八年六月二十九日、父四郎次の死亡にともない、二十三歳で米良家十三代目の家督を相続する。

 四郎次が死んだ年、チナ(四十八歳)との九人の子のうち、夭折したスエ、濱崎清蔵家へ養女に出したナツを除いて、ハル(二十九歳)とアキ(二十四歳)はすでに嫁いでおり、繁輔はその前年に十八歳で事故死(造船所に勤めていたが、そこでの怪我がもとで、数日後に死亡。キク談)している。フユ(二十一歳)は翌年に結婚し、キク(十四歳)と周策(十歳)はまだ幼かった。先妻ツルとの間の五人の子には、米良家を継ぐ者はいなかった。

 繁実は当初浦河町役場に勤めていたが、上司との折り合いが悪く、その後、現在の北方領土四島のひとつ色丹(しこたん)島の役場に勤務していた。

 色丹島は、標高四一三メートルの斜古丹山を中心に、全体が山地・丘陵になっている面積二五五・一二平方キロメートルの島である。昭和二十年八月、ソビエト連邦によって占領され、現在はロシア連邦が占領、実効支配している。

 当時色丹島には千島国色丹郡色丹村が置かれ、千人あまりの住民がいた。村役場があった中心集落は、北東部の斜古丹湾岸で、学校や駅逓、郵便取扱所も設けられていた。島の南北両岸には天然の良港が多く、コンブ、サケなどの漁業が主要産業であった。

 

  繁実の応召

 太平洋戦争の激化に伴い色丹島を出た繁実は、十勝の本別町役場に勤務していたが、昭和十八年五月に召集令状を受け取る。繁実は姉アキの嫁ぎ先である様似郡様似(さまに)町で銭湯を経営していた三橋嘉朗の許から出征して行った。三十三歳、独身であった。アキの孫である私は、昭和三十五年にこの家で生まれている。

 平成二十年三月、私は北海道保健福祉部福祉局へ繁実の軍歴照会を行っている。その結果、次のような回答を得た。

 

 昭和六年十二月一日       第一補充兵役編入

 昭和十八年五月二十三日 二等兵 臨時召集のため歩兵第二十八連隊補充隊に応召

 昭和十八年五月二十三日     要塞建築勤務第九中隊に編入

 昭和十八年五月二十五日     樺太豊原着

 昭和十九年一月十日   一等兵 

 昭和十九年七月十日   上等兵

 昭和二十一年三月七日  兵 長

 昭和二十一年三月七日  伍 長 ソ連ムリー第一地区ポートワニ病院において栄養失

                 調兼急性肺炎により戦病死

 

 この軍歴からわかることは、繁実が満二十歳になった昭和六年十二月に徴兵検査を受け合格となり、補充兵として登録されている。第一補充兵役とは、現役欠員時の補充兵員である。その後、昭和十八年五月に応召し、陸軍第七師団歩兵第二十八連隊第九中隊に編入され、樺太の豊原に派兵。昭和十九年一月に一等兵、七月に上等兵へと進級し、昭和二十一年三月に戦病死したため、二階級特進で伍長となっている。

 繁実の浦河町の除籍謄本には「北海道札幌地方世話所長報告」として、「昭和二十一年三月七日午前十時、ソ連ムリー第一地区ポートワニ病院で死亡。昭和二十四年三月十五日送付除籍」とある。

 繁実の所属した第二十八歩兵連隊は旭川に本部を持ち、昭和十七年八月にガダルカナル島にて玉砕し、連隊長が自決している。その再編成により、繁実が応召されたものと思われる。

 日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連は、昭和二十年八月八日に対日宣戦布告をし、日本が事実上占領していた中国北東部と満州国への侵攻を開始する。南樺太や千島列島では、終戦後の九月四日までソ連軍との戦闘が行われていた。ソ連軍の豊原への軍事侵攻は、昭和二十年八月二十四日である。武装解除された日本軍部隊は、集成大隊に編成替えさせられ、ソ連領内の約四十六地区の収容所に移送・抑留されている。

 また樺太南部に位置する豊原市は、明治三十八年から昭和二十年までの四十年間、日本の統治下にあった。豊原市は、現在のサハリン州の州都ユジノサハリンスク市である。

 

 2 繁実の抑留先

 このシベリア抑留者については、いまだに正確な把握がなされていないが、旧厚生省が実施した帰還者からの聞き取り調査による推計では、五七万五〇〇〇人が抑留され、そのうち死亡者は五万三〇〇〇人に上っている(「厚生労働省作成名簿」)。一説によると百万人の抑留者がいたともいわれ、冬期には氷点下五十度にもなる極寒の地で、最初の冬だけで十一万人の日本人が死んだと推計している民間団体もある。繁実もその犠牲者のひとりであった。

 繁美が死亡したシベリアのムリー地区については、『戦後強制抑留史(三)』に次のような記述がある。

「ムリー河畔コムソモリスク対岸ピアニー(ピーアン)より沿海州東海岸ソフガワニ湾に至る延長約四百五十キロにわたるバム鉄道沿線上に散在する収容所を総括してムリー地区と称した。この地はおおむね山麓に沿う地域であり、鉄道沿線を除いてほとんど密林であって大きな都邑(とゆう)はなく、鉄道開設後の開墾地でいわば未開地である。

 地区は百二十九か所の分所および十四か所の病院から成り更に支部編成をとり三か所の支部に分割されていた。この地区に入所した大隊は満州編成大隊二〇個大隊、千島・樺太編成大隊三五個大隊合計五五個大隊、五万二千三百五十六人(終戦より一九五一年八月まで)であった」とある。

 ここで、抑留死亡者をデータベース化し、ホームページで公開している村山常雄氏の記述から、「収容所」と「支部」、「分所」の違いについて明らかにしておく。村山氏は、自らが抑留体験を持ち、この抑留死亡者を調べ上げ著述化した功績により、平成十八年に第四十回吉川英治文化賞を受賞している。

「基本的に『収容所(ラーゲリ)』は、内務省直轄の州等から独立した地理的エリア(日本人はこれを『地区』とも呼んだ)で、大きいものは数百キロにも及ぶ広大な範囲に、多数の『分所(カローナまたはラグプンクト)』、すなわち『有刺鉄線で囲われた個々の生活単位である収容施設』を包含し管理するが、後者をも俗に収容所とも呼ぶことから、両者はたまたま混同されることがある。

 この両者の中間組織として『支部(アジレーニエ・ラーゲリヤ)』があり、いくつかの分所を管理した。病院での死亡者以外は、この『支部』ごとに記録されている場合が多い」

 村山氏の説明から、私たちが一般的に理解している収容施設は、収容所ではなく分所であることがわかる。組織構造から見ると、収容所―支部―分所という序列になっており、正式には全て番号で呼ばれていた。

 『戦後強制抑留史(三)』は、このムリー地区での死亡者を二四二三人と記している。さらに、繁実の死亡した昭和二十一年までにムリー地区ポートワニ附近で着工された作業を、同書の「主要建設工事の地域別成果一覧表」に探ると、おおよそ三つの建設工事があった。

 ひとつはポートワニの海軍倉庫二十二棟の建築および水道鉄管一キロの敷設工事で、昭和二十年十月から開始され、作業人員は千人であった。

 また、ポートワニ―コムソモリスク間の鉄道建設工事がソフガワニで行われ、着工が昭和二十年九月で、作業人員は六百人とある。そのほかに、ソフガワニ―ピアニー間三四〇キロの鉄道建設などがみられるが、ほかにも小規模の作業は無数にあったようである。

 村山常雄氏によると、ムリー第一地区の作業所を「サラワッカ駅、トゥムニン駅前、ペレワール駅、イェンナ河、ガラガラ山分所、スートゥイリ河、ドゥブリカン河、プレーヤ河、ヤウリン河、四地区一支部温泉」としている。

 一説によると、このムリー第一地区には三万人の捕虜(昭和二十年九月時点)がいたといわれ、主な労働は、伐採、製材、鉄道の建設、機関車の薪積み、土木作業などであった。 劣悪な環境と過酷な強制労働により、栄養失調による衰弱死や赤痢などによる感染病死が死亡者の大半であった。 (つづく)