Coffee Break Essay



  『痛い祝砲』




 私は、サラリーマン生活のかたわら、趣味でエッセイを書いている。

 昨年(二〇〇五年)に続き、今年も文藝春秋の「ベスト・エッセイ集」に拙作が収録されることになった。

 一報をもらったのは、土曜日の朝だった。全身に鳥肌が立った。思わず外に飛び出して、パンツを下ろして万歳三唱をしたい衝動に駆られた。変体ではないが、ケタ外れのとんでもないことをしたくなったのだ。そうでもしなければ、激しい動悸と、ワナワナ震える足が治まらなかった。正直、二年連続はないと思っていた。このエッセイ集への収録は、二十五歳に見た夢だった。

 その日は一日中、フワフワした気分で過ごした。寝る前に、四リットル入りのペットボトルの焼酎、「大五郎」で祝杯をあげた。珍しくスルメを炙って食べた。

 異変はその夜に起こった。正確には午前三時半である。熟睡中の私は、腹痛で目を覚ました。元来、私は胃腸が弱い。胃が重苦しくて早朝に目覚めることがしばしばある。それだろうと思った。

 ところが、横を向いてもうつ伏せになってもどうにもならない。そればかりか、ますます痛みは増大する。これは尋常ではないと、這うようにして蒲団を抜け出し、階下へ降りた。胃痙攣だと思った。スルメがいけなかったかと考えた。酒気はすっかり抜けていた。

 胃痙攣の対処法を探そうと、ノートパソコンを手繰り寄せ、床に転がったまま電源を入れる。指がこわばり、キーボードが思うように叩けない。やっとのこと画面を表示させたが、読み続けられなかった。二階では妻と娘が寝ている。今、起こしたところでどうにもならない。朝を待とうと思った。

 痛みの中で、佐藤愛子氏のエッセイを思い出していた。かつて佐藤氏は、真夜中に腎盂炎(じんうえん)の激痛に襲われたことがある。お嬢さんが隣室で寝ていたが、不要な心配をかけまいと脂汗を流しながら、じっと耐えた。その結果、痛みのため二、三度気絶したという。並みの根性ではない。その話が頭をかすめた。

 だが、万が一を考え、非常用の持ち出しリュックに着替えと財布、保健証を入れて側に置いた。その間にも痛みはますます強くなり、背中まで痛み出した。声を出すと多少苦痛がまぎれる。居間のドアを閉め、タオルを口にくわえて唸った。脂汗が流れた。

 しばらくして娘が降りてくる音がした。体を起こし、なんでもないような顔をつくって、「おッ、小便か」

 と問うと、 

「どうした、チチ……」

 ギョッとしている。唸り声で目が覚めたという。万事休すと観念した。オレは腹が痛いから、今から救急車を呼ぶ。心配はいらない。ママをそっと起こしてこいと命じた。何たる敗北、佐藤氏にはかなわないと思った。

 妻は、長いこと精神疾患を患っており、この騒ぎに巻き込むのは避けたい。だが、黙って病院へ行くのも問題がある。妻の不安を増大させることになると考え、やむなく起こすことにした。

 午前五時、どうしてもついて行くと救急車に乗り込んだ妻を留まらせ、ひとりで病院へ向かった。救急隊員が、

「大丈夫ですよ、我々にまかせておいて下さい」

 といってくれたので妻が渋々納得した。

 けたたましいサイレンの音とともに救急車が走り出し、私は寝台にくくりつけられていた。中年の救急隊員が、

「何か心当たりはありますかね」

 と問うので、スルメを食べたことをいうと、

「えッ、スルメ? 硬いスルメ?……」

 まるでスルメを食べたのがいけなかったような口調である。ネズミやカラスを捕って食べたというのならまだしも、スルメくらい誰だって食べるだろう。やわらかいスルメなどあるわけがない。八代亜紀だって「……肴は炙ったイカでいい」と歌っているではないか。そんなことを考えながら、痛みを紛らわせていた。

 救急車の寝台の上で揺られながら、新聞配達しか走っていない休日の早朝なのだから、もっと速く走れと祈るような思いでいた。病院までがひどく長く感じられた。

 搬送された先は大学病院だった。私を迎え受けた中年の看護師が、

「ん……、イシかな?」

 とささやいて、紙コップを持ってきた。尿検査の結果は数分で出た。

「やはり、尿管結石で間違いないですね」

 ひどく眠そうな顔の若い医者にいわれた。スルメでも胃痙攣でもなかった。

 看護師が、

「産みの苦しみですよ。さあ、頑張って産みましょう」

 と冗談半分におどけたが、それどころではない。子供が二、三人いそうな看護師で、何よそんな痛み、ダメねェ、男は、とでもいいたげな余裕の微笑を浮かべていた。

「痛み止めですからね。ゴメンなさいね」

 という声が頭の上でしたかと思う間もなく、いきなり私のパンツを下し、あっという間に座薬を入れた。プロの早業である。パンツを下ろして万歳三唱したい、と考えた自分はどこにもいなかった。それでも痛みが治まらず、点滴を受けている間中、悶え苦しんだ。

「痛み止めの注射、しますよ。痛いですからね、いいですか」

 と例の看護師に脅され、何で痛みを止める注射が痛いのかと、思う間もなく息が止まった。手術後、麻酔が切れたときに使う痛み止めだという。十分ほどで、痛みがウソのように消えた。

 午前八時、私は何事もなかったように病院を後にした。途中、自宅に電話をすると、横浜から義母が駆けつけていた。全員が心配の渦の中にいた。そういうこともあろうかと、尿管結石とわかった時点で医師に事情を説明し、這うような格好で病院の玄関に行って、自宅に電話を入れておいたのだが、私の努力は報われていなかった。

 長時間の激痛の後遺症はあったが、みんなを安心させるため、駅前の喫茶店で待ち合わせ、モーニングコーヒーを飲んだ。

 陣痛にははるかに及ばないが、尿管結石の痛みには恐れ入った。

「私のピストル、水鉄砲だとばかり思っていたら、弾丸も出るようだ。痛い祝砲になってしまった」と締めくくりたかったが、翌日の泌尿器科での検査の結果、石が見当たらないという。レントゲンにもエコーにも映らなかった。造影剤で腎臓まで調べたが、ない。出たのではないかと医者はいうが、そんなことはない。尿管結石といわれてから、細心の注意で放尿を見守っていのだ。石を見逃すほど、私の口径は太くはない。

 「努力の結実」という言葉があるが、私の場合、時間がかかった分「結実」が「結石」に変化したようだ。

 かくして痛い祝砲は、空砲に終わった。

                  平成十八年六月 芒種  小 山 次 男