Coffee Break Essay


 『下読み』

 今年(平成十九年)の夏、エッセイ賞の下読みを始めて経験した。同人誌が主催するエッセイ賞の予備選考である。

 私がこの同人誌に所属したのは、平成十五年にエッセイ賞をもらったのがきっかけである。以来、エッセイの添削指導を受けながら、同人誌にエッセイを発表している。

 八月に入って、事務局から下読み依頼のメールが舞い込んだ。唐突のことであった。自分のエッセイを書くので精一杯の私が、他人様のものを評するなど本末転倒だと思った。第一、原稿を読む時間がない。サラリーマン生活のかたわら、寝る時間を割いてエッセイを書いている。加えて、妻のことがあった。依頼があったときも妻は入院していた。うつ病を患って十年、妻は毎年のように入退院を繰り返している。とてもじゃないが無理だと思った。

 だが、私はパソコンを前に腕組みしながら、しばらくメールを睨んでいた。ご指名がかかったのは名誉なこと。この機会を逸すれば、二度と誘いはないだろう。勇気を出せば、新たな世界が見えるかも知れない。何より、またひとつエッセイのネタができる、と目先の誘惑が頭をかすめた。考えた挙句、承諾のメールを送った。こんな私でも務まるでしょうか、という言葉を添えるのを忘れなかった。

「あなたなら大丈夫です。自信をもってください。自分を棚に上げて評価するのがコツです」

 なんとも意味深長なメールが返ってきた。評価カードに五段階評点を付した後、コメントを添えるとある。コメントを書くとは想定外であった。すでに一次選考を終えた作品を、四人が持ち回りで読み、評点五、四のついた作品から採ってゆき、二十本に絞り込む。そこまでが私の役割だった。その後、三次選考、最終選考と進んでゆく。最終選考は作家のS先生により、最優秀一本と佳作二本が決まる。ただ、一定のレベルに達していなければ、最優秀は「該当作品なし」となる。過去十二回行われた選考で、最優秀は六本しか出ていない。

 応募の締め切りが八月末日であったので、まだ一カ月はあると安心していたら、早々に原稿が送られてきた。選考はすでに始まっていたのである。

 私の事情を配慮して、私の読む順番が最後になっていた。早く次の人に回さねば、という心配をしなくてすむので助かった。

 私は送られてきた四十本近い原稿の束を前にし、味わったことのない緊張に包まれていた。自分がエッセイ賞に応募する際は、推敲に推敲を繰り返し、もうこれ以上書けないという締切日ギリギリまで粘るのである。大げさにいえば、命を削るような作業の果てに、祈るような気持ちで原稿を投函する。そんな原稿の束が目の前にあると考えると、おろそかな気持ちでは読めない。原稿が叫び声を発しているように感じられた。

 私は、仕事と家事、眠る時間以外の全てを下読みに当てることにした。平日まとまった時間が持てるのは、往復二時間弱の通勤電車の中である。原稿をバインダーに挟み集中して読んだ。読み終わるとすぐに評価カードに点数を書き込み、コメントを書く。一度の読みだけではコメントが書けない場合が多かった。家に帰ってからその評価カードをパソコンに打ち直す。採点のムラが生じないよう、応募者の一覧表を作成し、評点を「3上」とか「4下」と細分化した。

 評点は思いのほか簡単につけられた。コメントも意外とすんなりと書いた。ただし、いい作品のコメントには苦労した。自分の読みが果たして正しいのか、不安になって何度も応募作品を読み返した。

「▼上辺の事象だけを羅列した、ひとりよがりの文章に終始している。作者の掘り下げた考えを書いてもらいたかった。なにより人間を描いて欲しかった。▼一瞬、田口ランディやよしもとばななを連想するような文体だと思ったが、すぐにニセモノとわかった。作者は軽快感を出そうと試みたのだろうか。軽快感より軽薄感を想起させ、それが不快感へと変わってしまった」

「▼この作品、面白い。六十歳の女性だが、文章が若々しい。感心した。▼この文章には、人生に対する愚痴や泣き言が一切ない。すべてをユーモアで包み込んでいる。だから読み手の心を震わせる。締め括りもよかった。▼私はこの作品に5をつけようか悩んだ。問題は表現にある。「思う」「だった」「のだ」の続出。ほかにも気になった表現があった。心情的には5にしたかったが、限りなく5に近い4にした」

 慣れるに従い、一流文学賞の選者気取りになっている自分を感じ、怖くなった。自分の作品では、指摘されるまで不具合が見えないのに、他人のものはよく見える。私は、完全に自分を棚に上げていた。

 応募者は、医者、弁護士、教員、元会社役員、主婦、学生、フリーターと千差万別である。海外からの応募作品もあった。

 「人生は夏休みより短い」と書き出していた医学部を目指す高校三年生は、夏休みの勉強の合間の応募であった。鉛筆書きの荒々しい文字からは、若さが溢れていた。太平洋戦争直前、空母の甲板で行われたのど自慢の話があった。初年兵である作者の緊張感が、映画のワンシーンを見るような臨場感で描かれていた。また、明らかに精神のバランスを崩している方の、悲観にくれた作品も数編あった。

 四十本の作品をこなすのに、一週間を要した。原稿を宅配便で事務局に送り返し、ホッとしたところに、次の四十本が届いた。そんなことを五回も繰り返した。最後は、目も眩(くら)むばかりの疲労を覚えた。

 今回、素人の生原稿に始めて接し、様々な人生を垣間見た、という印象を強く持った。素人ゆえの文章の拙劣さが、かえってその人の人生をのぞき見たような臨場感となって伝わってきた。応募者の年齢は、十代から八十代と多様だが、端正な文字で書かれた原稿は、パソコン原稿より格段に読みやすかった。作者の体温がひしひしと伝わってくる手書きの迫力に圧倒された。

 もうひとつ驚いたことがある。原稿の書き方には、いくつかのルールがある。句読点や閉じ記号の『」』や『)』を行頭にもってこないとか、『……』や『――』は二文字分使う、かぎ括弧で括った会話文の次にくる地の文の行頭を一文字下げる、などといった原稿書きの基本を忠実に実行していたのは、二〇〇本近い作品の中で、ただ一人元予備校の国語の教師だけであった。中学、高校の現役の国語の教師ですら正しく書けていなかった。偉そうなことをいう私も、つい最近、書けるようになったのだが。

「下読みでは、悪い作品を採ってしまうことはあっても、いいものを取りこぼすことはない」という。文学賞の下読みを長年やっていた人の文章を読んだことがある。言い訳めいて聞こえるが、今回の経験でこの言葉に確信を持った。選に漏れると、選者に対する不信感が湧いてくるものである。

 下読みをしながら、五年前の夜のことを思い出していた。

 忘年会が終わって、したたかに飲んで帰宅したら、テーブルの上に同人誌からの封書があった。選考結果は一月であったので、何だろうと取り出した文書に、二十名の名前と作品名が列挙されていた。その中ほどに私の名前があり、二重丸が付されていた。心臓が肋骨を叩き胸が苦しくなった。腹の底から湧き上がる歓喜とともに、無重力空間に投げ出されたような開放感を味わった。その夜は、興奮して寝付けなかった。あんなに嬉しかったことは、後にも先にもない。

 さて、今回の選考結果だが、ちょうど今ごろ応募者のもとに届いているはずである。

                 平成十九年十二月 冬至  小 山 次 男