Coffee Break Essay


この作品は、室蘭民報(2018120日)夕刊「四季風彩」欄に掲載されました。

この作品は、20193月発行の同人誌「随筆春秋」第51号に掲載されております。


 島崎さんの小便


 酒での失敗談は数多くある。想い出深いのは、島崎さんとの酒だろう。

 私が東京で就職したばかりのころ、島崎さんは五十歳を少し過ぎた年齢だった。島崎さんは、江戸っ子気質でベランメー調、飲むほどに饒舌になる。彼はこよなく日本酒を愛していた。だから、昼食もソバしか食べない。

「ばかやろう! メシなんか食ったら、酒がマズくなるじゃねぇか」

 と返ってくる。会社帰り、ひとりで一杯引っかけて帰るのが楽しみで、そのために会社に来ているような人だった。

 島崎さんは三浦市(神奈川県)から通っていた。京浜急行の始発、三崎口駅から会社のある日本橋人形町まで乗り換えなしの一時間四十分の通勤だった。

 飲みすぎた島崎さんは、すっかり寝込んでしまい、その距離を折り返して戻って来るのだ。そんな島崎さんの姿は、何人もの社員が目撃している。飲んだ帰りに人形町駅を通る際は、みな反対方向の車窓に島崎さんを探すようになっていた。終電を失くした島崎さんは、競馬の当たり馬券でビジネスホテルに泊まったこともあった。

 あるとき、珍しく島崎さんに誘われた。島崎さん、実は大の読書家で、文学談義に花が咲いた。咲き過ぎた。大ファンの太宰治がいけなかった。島崎さんの舌に火がついた。その舌が空回りし出して、何をしゃべっているのか分からなくなってきたところで、お開きとなった。

 駅に着くや、

「オッ、ショーベン!」

 と言う。二人でトイレへ行く。トイレには我々しかいなかった。小便をしながら、なおも熱弁を振っている。だが島崎さん、なかなか小便の音がしない。おかしいなと思い、チラリと見ると、確かに両手で握っている格好をしている。だが、肝心なものが出ていなかった。どうなっているンだと思ってよく見ると、島崎さんの足許から私の方に向かって、水が流れて来るではないか。その水は島崎さんのズボンの裾から出ていた。

「島崎さん、チンポ、出てないスよ!」

「えーっ? 何だって?」

「小便が……ズボンの裾から出てます!」

「あ、ああっ……いけねぇ。おめぇ、何でそれをもっと早く言わねぇンだッ!」

 島崎さんは革靴に溜まった小便を便器に空けながら、「年取ると、ショーベンもどっから出て来るか、わかりゃしねぇな」と息巻いた。

 歩きながら、何だかグチャグチャしやがるといい残し、後手を振って平然と改札の向こうに消えていった。

 島崎さんが定年退職して数年後、島崎さんの訃報を受け取った。どうしても都合がつかず、葬儀には行けなかった。あの世でも豪快に酒を飲んでいることだろう。今でも人形町駅のトイレに入ることがあると、島崎さんの小便を思い出し、思わず頬がゆるんでしまう。

                           平成二十九年九月  小


  付記

  平成十六年三月初出「梅崎さんの酒」を改訂し、改題した。