Coffee Break Essay




 
「戦争の功罪 ―団塊の世代」


  昨年(平成二十七年)、「戦後七十年の節目」という言葉をよく耳にした。戦争ははるか遠い昔のこと、歴史のエピソードの一つといった感が否めない。お隣の国との軋轢(あつれき)になっている従軍慰安婦問題にしても、「戦争のときのことでしょ。なんで今さら……」という気持ちもどこかにあるのは事実だ。だが、この問題もまた、戦後処理がきちんと終わっていないことを示唆する一つの事例なのだろう。

 就職活動のことを「就活」というが、そんなノリりで、人生の終わりの活動を「終活」という。ここ数年、やたらとこの言葉が幅を利かせている。これも団塊の世代の影響だろうということは、容易に想像できる。

 団塊の世代とは、終戦直後の昭和二十二年(一九四七)から二十四年までのわずか三年という短い期間に生まれた人々である。戦争という極限状況から解放された男たちが、待ちわびる妻のもとへ帰った。そして涙を流ししっかりと抱き合った。結果、空前のべビーブームが巻き起こった。待っていたのは妻ばかりではない。多くの未婚女性も、男たちの復員を待っていた。もちろん、未亡人女性も数多くいた。

 この時に生まれた子、彼らはまさに「戦争を知らない子供たち」であり、日本初の「戦後生まれ」なのである。彼らの両親の大半は大正世代であり、つまり彼らは名実ともに新しい時代を担う子供たちであった。

 団塊の世代という言葉は、堺屋太一の小説「団塊の世代」に由来する。彼らは今年、六十九歳から六十七歳になる。この世代が通り過ぎた後には、学校などがその典型なのだが、過剰設備が取り残される。社会的な影響は計り知れない。現在、街に接骨院・整骨院の類が溢れるのも彼らの影響だろうし、デイサービスなどの介護施設や有料老人ホームも彼らの到来を待ちわびている。

 総務省の見立てでは、二十年後、三人に一人が六十五歳以上となり、五人に一人が七十五歳以上だという。昭和三十五年(一九六〇)生まれの私は、七十六歳だ。その中に自分がいることを知り、改めて愕然とする。ちなみに今は、八人に一人が七十五歳以上だ。

 医療費の増大、膨らみ続ける社会保障費は……と将来が心配になる。この流れの中で消費増税に行きつくのは、受け入れなければならない必然なのだろか。そして最後の最後に笑うのは、葬儀屋なのだろう。介護ビジネスの延長線上に、空前の葬式ラッシュが想定できる。葬儀屋の背後には、墓石屋と仏壇屋が見え隠れしている。

 だが、その葬儀屋のさらに後ろに君臨するのが、坊さんだ。団塊の世代がこの世からいなくなってもなお、その影響力が三十年以上にわたって及ぶ。三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌……年忌法要が目白押しに待ち構えている。もっともそのころにはライフスタイルもガラリと変わり、三十三回忌や五十回忌などはできなくなっているだろう。

 現在ゼロ歳の赤ん坊が何歳まで生きるのかを示す物差しが「平均寿命」である。これに対し、ある年齢の人がそこからさらに何歳まで生きるのかは、「平均余命」という尺度が現実的である。

 この物差しを使うと、現在六十五歳の女性の四人に一人が九十五歳まで生き、男性は同じ割合で九十歳まで存命する。つまり、すでに「人生九十年」に達しているのだ。二十一年後、団塊の世代の先頭は九十歳に到達する。団塊の世代の大方がいなくなるのは、これからおおよそ三十年後ということになる。先に挙げた年忌法要は、そこからスタートする。つまり、先の大戦から七十年を経た今、さらに今後八十年近くは戦争の影響が続くことを意味する。

 ただ、団塊の世代の影響は、これで終わったわけではない。彼らの子供たちもまた大きな塊として存在する。昭和四十六年(一九七一)から四十九年にかけて第二次ベビーブームが巻き起こり、彼らは「団塊ジュニア」と呼ばれている。

 本来なら人口構成図はピラミッド型になるのだが、戦争がそれをいびつな形にした。その代償は、重い負担として今後も百年以上にわたってのしかかってくる。

 それにしても気の毒なのは、「団塊の世代」とレッテルを貼られてしまった人々である。戦争を知らない彼らもまた、立派な戦争の犠牲者である。


               平成二十八年三月  小 山 次 男