Coffee Break Essay



 『青春の師』



 高校時代を札幌のミッションスクールで過ごし、京都の仏教系の大学に進学した。好き好んで宗教学校を選んだ訳ではない。そこしか入る学校がなかったのだ。

 大学の入学案内に、入学式当日「数珠持参」という文字を発見し、卒倒したが、後の祭り。入学式前日、しぶしぶ清水寺近くのお土産屋で数珠を買い求めた。その数珠は二十数年を経た今も健在で、通夜や告別式のときだけお目にかかる。悲痛な思いでその数珠を手にするたびに、ほのかな青春の記憶が蘇る。

 大学時代のアパートに、坊さんがいた。同じ大学に通う学生なのだが、早くに僧侶である父親を亡くし、家業を継いでいた。

 Iさんには二人の兄がいた。長男はハーバード大学の大学院に在籍し、次男は早稲田を出て、大手電機メーカーの研究室にいた。二人とも家を継がないと言い出し、Iさんが急遽坊主に転身したという経緯がある。ちなみに、アパートの近所に住むIさんの叔父は、暴力団の幹部であった。怖いものなしのファミリーである。

 Iさんは、檀家に不幸があるたび、兵庫県の実家の母親から電話で呼び出される。自ら葬儀から法事まで執り行うという稀有な学生であった。私はそのIさんと共に自炊生活を送った。

 Iさんは、東京の専門学校を卒業してから、大学に再入学していたので、二学年上の先輩ではあったが、卒業時点ですでに二十七歳になっていた。ケタはずれの大酒飲みで、飲むと決まって説教が始まる。私は彼の説教を二年間、ひたすら聞いて過ごした。

「ええか、酒いうもンはなぁ、もう飲めへんなぁ思ぅても、相手が注いでくれるのを断ったらあかんのや。ありがたくお酌してもろぅて、ナミナミにしておけばええんや」

「ハア」

「そいで、時々それを嘗めるんや。するとな、こいつはもう飲めへんのやなぁてわかる。コップを手で塞いだらあかん。さあ、もっと飲まんかい」

 私はなみなみに注がれた酒を、さらに飲むのである。この人からは、酒のマナーから人生まで、さまざまなことを教わった。

「今回の葬式は悲惨やったァー。交通事故で顔がグシャグシャや。両方のホッペタから手ぇを離すと、顔がのし餅みたいにペッタラコォになるんやで。子供が小そうてな、お父ちゃんの最期の顔、見せられへんのや」

 Iさんの四畳半の部屋には、古色然とした仏壇があった。その引き出しには、御霊前、御仏前と書かれた袋がいつも入っている。葬式から帰って来たIさんは、

「おっ、酒、買(こ)うて来い。お清めや、お清めぇ」

 と言ってその中から一万円札を抜き取って、私に渡すのである。これが週に一度はある。我々は年中お清めやら供養に明け暮れていた。

「ありがたく飲ませてもろぅたらそれでええ。これがほんまの供養や」と。

 彼は、頼りない私に人生経験を積ませようと、たびたびお節介を焼く。あるとき、極道のオッサンに天皇制の話をするように命ぜられた。

 Iさんの部屋へ行くと、どこから見ても会社の重役と見まがう叔父がいた。

「えらい、いつもIがお世話になってますぅ」

 その叔父が畳に手をついて丁寧に挨拶をする。こちらは素性を知っているので、それだけで緊張が倍増する。Iさんはそんな私を楽しんでいた。

 酒がだいぶん進んだころ、Iさんから合図がある。私は緊張した面持ちで、話を天皇制の方向へ持って行く。するとオッサンの目がキッと鋭くなって、

「自分はどない思うとるんや」

 と向けられ、慌てふためくのだ。

「――あのー、いろいろ意見はありますが、皇室は、万世一系の伝統がありますので、それを廃止すのは日本人としてどうかと……」

 しどろもどろである。

「――理屈はええのや。ええか日本はな、オヤジ(天皇)がおるさかい、これ(親指を立て総理大臣を指す)が倒れても、国民は動揺せえへんのや。アメリカやとそうはいかへん。法学部はそういうこと教えへんのかいな」

「ハァ……」

 まあ、一杯、と日本酒が差し出されグラスに両手を添えて酒を受ける。そして叔父さんの二の腕に覗く刺青にギクッとするのである。

 また、Iさんは、京都にいる間に見ておかなければならない所があるといって、しばしば我々アパートの住人を車に乗せ、京都観光へ連れ出してくれた。冬の比叡山延暦寺、紅葉の栂ノ尾高山寺、真夜中の桜流れる嵐山渡月橋と場所はさまざまで、その時々の季節にふさわしい場面へ案内してもらった。

 この観光、一風変っていた。寺に行くときは、墨染めの衣を持参する。一般公開されていない庭園や仏像を、その衣装を着て堂々と案内してくれるのだ。医者になり済まし、白衣姿で大学病院の廊下を闊歩するようなものである。

「これが国宝の○〇や。こんなもン、へでもないわ」といって、法衣をたくし上げ放屁するのだ。「はよぅ、写さんかい」と撮影禁止の国宝や重要文化財の写真を幾度撮らされたことか。誰か来るのではないかと気が気ではなく、じっくり鑑賞している余裕などなかった。

 Iさんは、大阪市内にも檀家を何件か持っていた。法事があれば呼び出しがかかる。ある時、同じアパートの野球部の後輩に、

「おい、アルバイトせェへんか。自分、丸刈りやからちょーどええわぁ」

 Iさんは野球部を法事に連れて行った。

「一万円もくれはりました」と意気揚揚と帰って来た野球部。「これがほんまの坊主まる儲けや」とIさんが笑う。それに味をしめた野球部、少しは後ろめたい気持ちもあったか、Iさんから般若心経の手ほどきを受けながら、アルバイトを繰り返していた。檀家にしてみれば、初々しいニセ若坊さんにもお布施を包まぬわけにはいかなかった。

 卒業を間近に控えたIさんが、嫁さんを探さなぁあかん、と学内を物色し始めた。卒業して一年ほど経ったころ、Iさんがひょっこりとアパートに顔を出した。どこから見つけてきたのか、坊さんの奥さんにはまるで似つかわしくない、ミス何とか張りの美女が傍らにいた。

 師のたまわく、

「人間はな、熱意と情熱や。ここ一番いう時はな、とにかく押して押して押しまくるんや。愛の押し出し≠竅v

 私の耳元で囁いた。

 宗教とかかわったお陰で、私には奇天烈な住職と、敬虔なクリスチャンが方々にいる。

                   平成十七年八月 処暑  小 山 次 男