Coffee Break Essay




 札幌の通り 〜東北通と栄通

 私が札幌での生活を始めたのは、平成二十五年(二〇一三)三月からである。住んでいる場所は、白石(しろいし)区栄通十九丁目である。マンションの前を北から南に向かって東北通が走っている。バス停の名称や信号機の住居表示には、「栄通○丁目」と記されていることから、「栄通」の別名が「東北通」であると思っていた。

 白石区の前身である白石村は、かつて仙台藩白石城主片倉小十郎の家臣団の入植した地であることから、東北通の「東北」も「東北地方」と何らかの関係があるのだろうと思っていた。そして開拓史の過程で、かつて「東北通」と呼ばれていた通りの名が「栄通」に変わっていったものと推測していたのである。そして、この通りがどうして二つの名称を持つようになったのかという疑問を、これまでに何人かに投げかけてきたが、誰もが首をひねるばかりで明確な答えを得ることはできなかった。

 このたび、この通りの名の由来を調べて、その答えが明らかになった。結論からいうと、通りの名が「東北通」で、「栄通」は地域名だったのだ。ただ、これらの名称は通り名と地域名がそれぞれ入れ替わるという、奇妙な変遷をたどっていた。詳しい内容は次のとおりである。

 東北通は、札幌市豊平(とよひら)区豊平一条三丁目を起点とし、厚別(あつべつ)区大谷地(おおやち)西五丁目を終点とする全長七・七七キロメートルの都市計画道路で、豊平区と白石区および清田区と厚別区の境界をなしている。正式名称を「札幌圏都市計画道路三・四・四一東北通」という。最初の数字「三」は「幹線街路」を意味し、次の「四」は「代表幅員一六メートル以上二二メートル未満」であることを示している。最後の「四一」は通し番号である。

 開拓時代、この道は農道であった。雨天の日はぬかるみになりやすく、近隣住民である吉田善太郎が道路の補修をしていたことから、「吉田の道普請(みちぶしん)」と呼ばれていた時代もあった。

 また、この道が白石村と月寒(つきさむ)村(のちの豊平村)の境界であったことから、「村界道路」と呼ばれたり、町制施行後は白石町と豊平町の境界となったことから、「町界道路」と呼ばれていた。

<「東北通」の名称の由来

 明治二十五年(一九八二)ころ、現在の「東北通」に接する豊平区月寒東のうち、月寒川を隔てた西側を「西北通り(にし・きたどおり)」、東側を「東北通り(ひがし・きたどおり)」と地区名を分けていた。

 昭和三十八年(一九六三)二月、北海道中央バスによるバス路線ができ、当時、東北通り(ひがし・きたどおり)と呼ばれていた向ヶ丘通との交差点付近にできたバス停が「東北通り(ひがし・きたどおり)」という名称であった。バスの行先表示などは漢字で書かれていることから、近隣住民ではない人たちから「とうほくどおり」と読まれるようになり、「町界道路」、「界通り」の名称もいつしか「東北通り(とうほくどおり)」が一般的になり、現在の「東北通」の名称がついたといわれている。

<「栄通」との関係>

 「白石区栄通」の地名は、昭和三十八年にこの地域の区画整理事業が終了した際、白石と豊平の境界をなす道路が通っていたことから、地域繁栄の祈りを込めて「界通り」の「界」を「栄」に置き換え、「栄通」と命名された。現在、栄通は一丁目から二十一丁目まであり、月寒東との境界をなす区間は、四・八キロメートルほどである。

 つまり、地域名である「東北通り(ひがし・きたどおり)」が、「東北通」と通り名に変化し、また、通り名であった「界通」が「栄通」という地域名に変わってしまったのである。その結果、地域名と通り名が一致しないという現象が起こってしまった。白石区内でいえば、この地域が「本郷通」や「平和通」などと違って、唯一名称不一致の場所になったのである。これが混乱に追い打ちをかける一因となった。

 繰り返すが、「栄通」と「月寒東」両地区の境をなす通りが「東北通」なのである。「栄通」は地名であって、通りの名ではない。そして、一ついえることは、近隣住民の多くが、「栄通」の別名が「東北通」であると思い込んでいることだ。特に、後から移り住んできた私のような者は、確信的にそう認識している。

 札幌市民でも、この近隣の住民でない限りどうでもいいことなのだが、気になったので調べてみた。

  参考:内容の大半をウィキペディア「東北通」より引用

               平成二十八年三月  小 山 次 男