Coffee Break Essay




 
 「札幌に暮し始めて」



 四月一日。朝起きて、寒いなと思いながらカーテンを開けたら、外が真っ白になっていた。「これが三寒四温っていうやつか」と一人ごち、小さなため息をつく。そのため息が、そのままガラス窓に凍りついた。

 前夜、ニュースで見た隅田川のさくら吹雪の映像が頭を掠(かす)める。札幌の冬は、そう簡単に春を寄せつけない。

 この日の札幌の積算の積雪量は七十六センチ。今年(平成二十五年)はとりわけ雪が多かったという。それでも、ピーク時に比べ半減している。車道の雪はすでにないが、歩道との間に積み上げられた真っ黒な雪の回廊が、目を背けたくなる光景を露呈している。除雪車の巨大なカッターが、バームクーヘンの丸みを切り取り、積み上げられた雪山が垂直な壁となっている。

 日差しと雨が力を合わせ、交互に雪を融かしてゆく。雨に打たれる雪を眺めながら、去りゆく冬の風情を追う。だが、情緒に訴えてくるものが見出せない。名残惜しいという感情が湧かないのだ。汚れた雪は、醜い冬の残骸でしかない。

 冬の初め、ホワイト・クリスマスなどとちやほやされ、ロマンチックな夜を演出していたあの雪は、いったいどこへいった。眩(まばゆ)く幻想的な夜を演出していたホワイトイルミネーション。イブの夜は聖歌隊まで出ていたではないか。それがどうだ、この有様は。誰もがウンザリした顔で、まだ降るのかという目を向けている。みな、長期間にわたる雪との格闘に疲弊しきっているのだ。

 夜寝る前に雪を掻(か)き、夜中に起き出してまた雪を掻き、出勤前にもう一度雪を掻く。早く消え去れ、という人々の思いは、そんなところからきている。ヒートアイランド現象が熱帯夜に拍車をかけ、人々から気力と体力を奪っている東京の酷暑の辛さに似たものを覚える。真夜中の気温が二十八度を下回らず、風がそよとも動かない。今年は三十度を切らない日もあった。南九州をも凌ぐ蒸し暑さとささやかれ久しい。どちらがいいか。無意識のうちに考えている。

 雨に打たれる雪を眺めながら、これまでの人生を重ねている自分に、思わずハッとする。やめろ、そんな非生産的なことは、と自らに言い聞かせる。「負」に向かおうとする思考回路のベクトルを、バイパスを経由して別系統へ持っていこうと試みるが、いくつかの分岐点を経るうちに、またいつの間にかベクトルが「負」の方角を目指している。融通の利かないカーナビが、当初の設定路線に戻そうと執拗に誘導する姿に似ている。

 北海道の太平洋に面した小さな漁村、様似(さまに)に生まれ、中学を卒業するまでそこで過ごした。高校、予備校と四年間の札幌生活を経、その後の三十二年間を本州で暮した。大学時代の四年間は京都で、残りの二十八年は東京である。五十三年も生きていると、いろんなところで生活するものだとつくづく思う。もちろんその大半は、自分の意思で選択したものではない。

 一昨年(平成二十三年)の三月、東京での生活に終止符を打ち、室蘭へやってきた。転勤である。東京に本社のある企業にいて、ある程度の年齢と役職にいた者が北海道に転勤するということは、おおむね左遷を意味する。大企業の部長などが、転勤の挨拶に来て、

「突然ですが、この三月から札幌支社へ異動を命ぜられまして……」

 という場面に何度か出くわしてきた。「飛ばされたな」と密かに思う。もちろん全てがそんな会社ばかりではない。地方への異動を転機に、ステップアップする人も少なからずいる。だが、札幌への異動は、名古屋や大阪、神戸や福岡への転勤とは一味違う趣(おもむき)がある。多分に私の偏見だが、「北へ向かう」とか「北帰行」という印象が強い。

「札幌はいい街です。東京以北最大の都市、一九〇万人ですよ。京都や神戸よりも多い。恋の街札幌、すすきのもありますし……」

「確かに冬の北海道は過酷ですが、住宅が寒冷地仕様で、室内は東京とは比べものにならない暖かさです。吹雪の夜でも、みなTシャツ姿でアイスクリームを食べていますよ」

 気の毒にと思う気持ちを秘めているせいか、いつになく饒舌(じょうぜつ)な自分がいる。

 私の転勤もある意味、似たようなものだ。ただ、私の場合、札幌で暮す母と妹が病を得、それまで精神疾患を患っていた妻が私のもとを去ったのを幸いに、転勤希望を出していた。当時大学生だったひとり娘は東京に残した。

 送別会の席上、衆議院解散のネーミングよろしく「今回の異動、『一家離散転勤』とでも申しましょうか……」と笑いを取ろうとしたが、誰もが事情を知っているだけに失笑を買うだけで終わってしまった。妻との闘病生活は、十二年半に及んだ。失うものは大きかったが、得たものもあった。

 三十四年ぶりに生活を再開した札幌の街は、大きく変貌を遂げていた。もはや私の知っている札幌とはかけ離れていた。高校時代は大都会だなと思っていたのだが、何もかもが小ぢんまりとして、やはり一地方都市に過ぎない。幼いころ広い家だと思っていたものが、何十年かぶりに訪ねてみると、こんなに小さかったのかと驚かされる、そんな思いに似ている。人々の訛(なま)りがそんな思いをいっそう増長させる。心のどこかで東京を引きずっている自分を感じる。歳のせいか、いまだに順応できずにいる。

 そんなある日、大通公園を西に向かって歩いていると、懐かしい歌碑が立て続けに飛び込んできた。二つの歌碑は、大通りの三丁目と四丁目にあるのだが、いずれも思いのほか、ひっそりと木陰に佇(たたず)んでいる。こんなに小さかっただろうか、というのが歌碑との再会の第一印象だった。

  しんとして幅廣(ひろ)き街の秋の夜の玉蜀黍(とうもろこし)の焼くるにほひよ

  家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし

 前者が石川啄木、後者は吉井勇の歌である。本州での長い生活の中、どれほどこの歌を口ずさんできたことか。私の中では、かつての札幌での暮らしと、私が思い描く札幌のイメージがこの歌に凝縮されている。

 碑文を指でなぞりながら、この歌碑の前で幾度となく佇んだ十代の自分の光景が蘇る。札幌に来て、初めて懐かしいものに出会ったような気がして、思わず胸が熱くなった。


                 平成二十五年九月   小 山 次 男

 追記 

 平成二十五年十一月 加筆