Coffee Break Essay


 「蛹(さなぎ)になりたい」


 私は無類の寒がりである。東京にいたころも四月下旬まで股引をはいていた。ついつい脱ぐタイミングを逸するのだ。

「汗かきながらモモヒキはくって、意味、わかンないんだけど」

 元妻の呆れ顔が目に浮かぶ。周りからも、

「……だって近藤さん、北海道生まれでしょ」

 ことあるごとにそんな言葉を耳にしてきた。だが、どこで生まれようが、寒いものは寒いのである。

 私は一月十五日に風呂屋の初孫として生まれた。北海道の厳寒期である。しかも未熟児で病弱だった。真綿に包んで育てられた、と聞かされてきた。それが寒がりの元凶だと睨んでいる。

 学生時代の四年間は京都で過ごした。五右衛門の釜茹でのような暑さを、身をもって体験した。いわゆる京の油照り≠ナある。その後、東京に二十八年いた。最初の五年を過ごした川崎の独身寮では、押入れの奥から扇風機を出すのが億劫で、ついつい秋を迎えたことが何度かあった。油照り≠ノ鍛えられたのである。

 後半の二十年間は練馬で過ごした。二十三区の中でも内陸部に位置する練馬は、都心に比べ一・五度から二度の気温差がある。四六時中汗をかいていることは不快だったが、体温を超える暑さも、寒さに比べればなんとかやり過ごすことができた。

 昨年三月の異動で、北海道への転勤が決まった。長年顔を合わせている商店街の八百屋やクリーニング屋などには、転勤の旨を告げて歩いた。「北海道」といっただけで、誰もが大仰にのけ反った。

「えーッ! 北海道!」

「うっそォー、ホント?」

(どっちなんだよ)と内心思いながら頭を下げる。驚いた後で誰もが一様に哀れむような、気の毒そうな顔をする。北海道は「本州最北端の海を渡った、さらに向こうにある場所」なのである。遊びに行く場所で、住むところではない。それが大方の意見である。かつて白河の関(福島県)を越えると、そこはもう蝦夷(えみし)の地、大和朝廷の勢力圏外だった。潜在的にそんな感覚が摺り込まれている。

 三月の北海道は十分に真冬だった。寒冷地仕様の靴を買い、防寒衣を重ね着してイヌイットも顔負けの厚着で臨んだが、それでも寒い。寒気の刃物が皮膚を刺す。寒さのレベルが半端ではない。ひとり暮らしゆえ、よけいに寒さが身に沁みた。

 妻とは、二十二年間生活を共にしたが、後半の十二年半は、精神疾患との闘いだった。妻の病気は、重いうつに人格障害を伴っていた。自殺未遂の入退院を繰り返していたが、一昨年の春、とうとう家を出て行った。私と娘の説得もむなしく、同じ病気仲間の男性のもとへ走ったのだ。

「健康な人にはこの気持ち、わからないわ」

 と。これまでの闘いは何だったのかと、思わず天を仰いだ。クリスチャンではないが、

「人間がこんなに哀しいのに主よ、海があまりに碧いのです」

 遠藤周作の『沈黙』の一節が、口をついて出た。

 転勤が決まって、大学生のひとり娘は東京に置いてきた。妻の病気の特殊性から、私は九年間北海道に足を踏み入れていなかった。北国の生活感覚をなくした状態で、北海道に飛び込んだのである。

 北海道は三月でも雪が降る。当たり前だ。だが、四月になっても雪が降るのだ。それも当たり前だという。今年は、ゴールデンウィークが明けてから雪が降った。オホーツクの街のことで、「名残雪」というアナウンサーの言葉が耳を掠(かす)めたが、聞かなかったことにした。

「長年慣れ親しんだ東京を、今まさに離れんとす」そんな思いに浸りながら、羽田空港の出発ロビーで飛行機の離発着を眺めていた昨年三月。思わずイルカの「なごり雪」を口ずさんでいた。

「……いまあ、春が来てェー君ィは〜、綺麗になったァ〜。去年よりィ〜ずっとォー、綺麗にィーなったァ〜」

 ヒートテックの下着を着込み、鼻の頭に汗をかきながら、コブシを効かせて後半のサビを歌った。そんな甘いセンチメンタリズムに浸った自分を悔い、恥じたのである。

 赴任先の室蘭市は北海道でも温暖な地で、「北の湘南」と称される伊達市に隣接している。(本物の湘南がそれを聞いたらどう思うか。湘南には大人の対応を、お願いしたいものである)

 北海道に来てからの一年を、私は無我夢中で過ごした。慣れない仕事と気候、風土に翻弄(ほんろう)されていた。四月になって雪が消えた。だが、五月になっても肌寒い。それは六月が過ぎて七月になっても続いた。

「マルさん、いったいいつになったら夏になるんだい」

「なに寝ぼけたこといってンですか、近藤さん。今が夏ですよ」

「えッ!」

 私はマルさんの地声の大きさに気おされ、石川啄木よろしく、じっと手を見た。

 太平洋に面したこの一帯は、一日中真っ白い霧に覆われる。美空ひばりのステージを覆うドライアイスさながらの海霧(がす)が、海から湧き上がってくるのだ。それが肌寒さの原因である。この時季、札幌との気温差が十度にもなる。

 七月の半ば、街路樹のナナカマドが色づき始めた。私は目を疑った。日増しに葉の一部が赤くなるのだ。

「ノリさん、これって紅葉じゃないのか」

 地元出身の乗山係長は、会社の窓からしばらくナナカマドを眺めていたが、

「ん……紅葉っスね。ドンマイ!」

 訳のわからぬことをいって、出かけてしまった。夏の前に紅葉が始まるのは、どう考えてもおかしい。本末転倒だろう。そんなことが許されるのか。

「カンベくん、これって、どう考えても紅葉だよね」

 理科系のカンベくんは、何事にも冷静な分析をする。

「ここんとこ、低温の日が続いてましたからね……。夏至も過ぎたことだし、仕方ないですよ」

 なぜか夏至というところで、カンベくんは腕時計を見た。「夏至」と来たか、と思った。それ以上の追求は徒労に終わると思いやめた。やがて紅葉した一部分の葉は茶色く枯れ、八月を迎えた。

 八月ともなると、さすがの室蘭も二十五度を超える気温になる。十四、五度から一気に夏日である。しかも昨年は三十度に達した日が二日あった。三十度を超える真夏日は、めったにないという。

「近藤さん、真夏はですね、八月からの二週間です。これが勝負ですから」

 マルさんが耳元でつぶやいたのを思い出した。急な暑さに身体が順応できない。ゆえに暑いと感じる。それがこの地の「暑い夏」なのである。「すべては二週間のために」そう思って肌寒さに耐えた。まるでセミのようだな、と思った。

 八月も十五日を過ぎると、秋を感じさせる風が吹き出す。軽井沢も真っ青である。思わず、

「えッ、もう終わり?」

 そんな言葉が口をついた。本当に二週間だった。早漏の夏が、呆気なく幕を閉じたのである。

 今年の釧路のサクラの開花は五月十七日、日本で一番遅い開花となった。最も早かったのは、沖縄の石垣島だそうだ。十二月二十四日だという。クリスマス・イブにサクラに咲かれても、迷惑な話しである。そういえば昨年の八月、アジサイがいっせいに咲き始めた。私は驚き、目を疑った。六月の雨にしっとりと濡れて咲くのが、アジサイだろう。そういう意味では、沖縄のサクラと似たようなものかも知れない。

 六月に入るとともに、今年もまた横田課長が半袖のワイシャツを着てきた。いくらなんでもやり過ぎだろう。寒くないんですかと尋ねると、「六月だから」といわれた。去年も同じやり取りをしたのを思い出した。この日の最高気温は十度に至らず、私は薄手のダウンジャケットを着て出勤していた。

 六月二十一日、暖房の入る事務所で二度目の夏至を迎えた。気温は十三度である。海霧のせいで、周りの風景が全てモノクロに見える。そんな単色の景色を眺めながら「ああ、明日からまた冬に向かって、日いち日と陽が短くなって行くんだ」と思った。極端なマイナス思考が頭をもたげる。

 冬の寒さは厳しく辛い。だが、いつまでたっても肌寒いのも堪(こた)える。ボディーブローのように気持ちを萎(な)えさせるのだ。みんなよく平気な顔でいられるなと感心する。はたして私は、この環境に順応できるのだろうか。心もとない気持ちになる。そんな私を見透かしたか、カンベくんが近づいてきて胸を張った。

「近藤さん、うちの近くのナナカマド、もう赤くなってるんです」

 カンベくんの家は、室蘭市を見下ろす高台にあった。

「でも、大丈夫です。あれは紅葉じゃないです。あの樹木の特徴なんですよ。考えてみれば毎年ですね、この時期から赤くなるんです」

 カンベくんは「この時期」というところで腕時計を見た。

「カンベくん、葉っぱが紅くなることを、紅葉っていうんじゃないの。それって、寒いからでしょ」

 思わず、強い口調になってしまった。カンベくんは、「ん……」といってしきりに腕時計を見たり、あごに手を当てたりしている。あッ、と思ったが、すでに遅い。私はカンベくんの優しさを、踏みにじってしまったのだ。寒さのせいだ。

 ああ、できることなら、蛹(さなぎ)になりたい。寒いのは、ダメである。



                平成二十四年七月小暑  小 山 次 男