Coffee Break Essay


 『作文』



  文章を書くということは、やっかいな作業である。

 一年程前から誰に教わるともなく、見様見真似でエッセイを書き出した。追い込まれれば書けるだろうと、月に二回の締め切りを自分に課した。いっぱしの作家気取りである。動機は、何か書いてみたい。私にも何か書けるか、という単純なもの。ストレス解消に始めたのだが、それがひどいストレスになっている。

 最初のころは、題材を決めて書いていたのだが、ここ最近は、何か書いているうちに方向性を決めてゆくというやり方に変えている。ネタが切れたのだ。思いついた言葉を箇条書きのようにパソコンに溜めておき、あとで組み替えるというやり方もする。

 内容を二、〇〇〇字程度にまとめたいのだが、のんべんだらりと書いていると、三千や四千はあっという間に超えてしまう。説明文になったり、二つも三つも題材が出てきて、何をいいたいのかわからない、たいくつな文章になってしまう。一旦、書き上げたものは、総簡単に削れるものではない。相応の勇気がいる。私の場合、文章を書いている時間より、削っている時間の方が圧倒的に長い。

 どうしても削れなかったり、話しが行き詰まった場合、数週間放置しておく。根を詰めて書いていると、必要以上に文章が熱を帯びる。冷却期間を置き、すっかり冷めたころを見計らって取り出してみると、コッテリと灰汁が浮いている。それを素早くすくってやらなければ、また文章が濁ってしまい、元の木阿弥となる。この作業を延々と繰り返す。料理と同じで、素材が良くなければ、美味いものはできない。

 現在の私の能力では、一作品仕上げるのに、最低でも一ヶ月はかかる。作家と私との間には、天文学的な距離がある。エッセイでこれだけ難儀しているのだから、小説などは論外である。

「エッセイの真価は、何より文章の魅力である。文章は筆者の人格である。名文は、やはり世俗の苦労を人一倍なめた者から生まれるものであろう。余分なことはひと言も言わぬ。こういう文章を書く人は、人にやさしく自分に厳しい人である」

 こんな文章を目にすると、心が萎える。私には書けないということか、と悲観論がもたげてくる。書いたものを心得のある人に添削してもらうのが、文章上達の近道だろうが、そんな暇も余裕もない。

 もともと私は、作文が苦手である。大の苦手と大威張りでいえる。小学生のころ、宿題で作文があると、いつも泣いていた。夏休みの終盤は、最悪だった。

 予備校の国語の時間に、次のような宿題が出された。

 イギリスの登山家ジョージ・マロニーは、あるとき「何故、君は山に登るのか」と訊かれ、「そこに山があるからだ」と答えた。このマロニーの名言、答えになっていないようで、実は答えになっている。それは何故か。思うところを五〇〇字以内にまとめよ、というものだった。平凡な答えではダメ、奇抜なものを期待している、と付け加えられた。

 提出期限は、一週間後。すっかり頭を抱え込んでしまった。結局、書けず仕舞いに終わった。

 今でも、ときおりこの宿題を思い出しては、考え込むことがある。正面から真面目に考えるから、ダメなのだ。視点を変えなければ、期待にそう答えは導き出せない。

 二十年を経、私がたどり着いたのは、まだここまでである。

 作文の修行は、これからである。

                  平成十三年八月  小 山 次 男

 付記

 平成十八年十一月 加筆