Coffee Break Essay



「流星」


 「眠れないのか」
 傍らの妻に声をかけると、
「ええ……」
 という明瞭な返事が返ってきた。
 箱根の宿でのことである。時計は、午前三時になろうとしている。妻は十時には
早々と蒲団に入っていた。私はそんな時間ではとても眠れない。寝室の電気を消し、やむなく洗面所に閉じこもって冷酒を飲みながら、しばらく本を読んでいた。午前零時を回ってから、やおら蒲団に入ったのだった。

「アモバン(入眠剤)、追加したんだけど、なんだかダメみたい……」
 夏の箱根といえば聞こえはいいが、我が家の定宿は激安を売りものにしたビジネスホテルに毛の生えたようなカビ臭い宿である。
 猛暑の練馬を抜け出したものの、箱根も暑かった。寝苦しさに輾転としていると、暗闇の中に妻のうごめく気配を感じたのだ。
 よし、つき合うか、とベッドから起き上がってカーテンを開けると、闇の底に白い飛沫を上げながら、早川が流れていた。窓を開けたかったが、虫がびっしりと窓に貼りついている。窓には網戸がなかった。クーラーをつけっぱなしにしていても、息苦しさは変わらない。
 川を隔てた正面には、急斜面の黒々とした山が覆いかぶさるように立ちはだかっている。その山の上に星空が見えた。わずかに見える夜空に、東京では見られないほどの星が出ていた。宿は塔ノ沢の深い谷底にあった。未明からペルセウス流星群が見える、という夕方のテレビのニュースを思い出した。
「……そうだ、今日は、流れ星が見えるんだ」
 と私が向けると、ベッドにいた妻が起き上がり、窓際の籐椅子に深く腰掛けた。
 カーテンをいっぱいに開け放ち、私は妻の傍らの床に寝そべった。ペルセウス座がどこにあるのかはわからない。W形のカシオペア座が頭上にあった。
 空を見上げた直後、太い光跡が夜空を横切った。息を呑むほどの強い光に、私は飛び起きた。
「見たか!」
 思わず大きな声が出た。
「見えたわ。ずいぶんと大きかったわね……」
 夜空をナイフで斬り裂いたように、光が一直線に走って消えた。一秒にも満たない刹那であった。
 その後も数分おきに光が走った。最初に見たものほど大きな流星はなかったが、白糸を引くように、時折小さな光跡が空を引っ掻いた。引き裂かれた闇の裂け目から光が漏れ、それがすぐに修復され、またもとの闇に戻ってゆく。こちらが真っ黒い袋の中にいて、その外には眩い光があるように思えた。この刹那に何を祈ればいいのだ。
 ふと、死んだらどこへ行くのだろうと思った。星になるとは思わないが、死後の世界はこの見上げている夜空のどこかにあるのだろう。昼間、そんな余計なことを考えなくて済むのは、太陽の恩恵である。夜空が本来の空であることを、改めて知らされる。
 我に返って傍らの妻を見ると、籐椅子に深くもたれたまま、じっと夜空を眺めている。彼女はこの闇に何を見ているのだろうか……。
 妻は、この(平成十九年)七月に退院したばかりであった。二十九歳でうつ病を発症して十年になる。毎年のように入退院を繰り返している。深い絶望にさいなまれ、処方された薬を全部飲んでしまうのだ。そのたびに救急車で病院へ運ぶ。
「ねえ、私はもう、十分に生きたわ。だからもういいでしょう。楽になりたいの。お願いだから、このまま死なせて」
 そういいながら、私の目の前で百錠ほどの精神薬を飲んだこともあった。無理に制止すると、逆上して包丁を持ち出す。今までに何度、包丁を向けられたことか。前後不覚になると、その包丁を妻自身に向けるのだ。なす術のない私は、あえぎながら錠剤を嚥下する妻の姿をじっと見つめる。
 手持ちの薬を全部飲み干し、妻の意識が遠のいたのを見届けると、薬の空砲をかき集め、非常用のリュックを傍らに救急車を待つ。こんなことを何度繰り返してきたことか。私が寝ている間や、会社にいるときに仕出かしたこともあった。十二月三十日に会社で打ち上げをしている最中のこともあった。その年の正月をどうやって過ごしたか、もう覚えていない。
 調子がいいときは自分の行為をひどく悔いるのだが、体調を崩すとそれがわからなくなる。
「どうしてあのひと、死にたくなるわけ。こんなにみんな一生懸命やってるのに」
 高校三年になった娘が呟く。いつのころからか娘は、母親のことを「あのひと」というようになった。妻の発病は、娘が小学二年のことである。以来、娘の中から「ママ」が消えた。今回の旅行に、娘も当然行くものだと思っていたら、
「勉強があるから行かないよ」
 とあっさり断られた。やむなく義母に娘を託し、妻と二人で箱根までやってきたのだ。今の妻に必要なのは、非日常に身を置くことであった。
 どこも観光せず真っ直ぐ宿に向かって、どこにも寄らず帰ってくる旅行に、娘は辟易しているのだ。妻を疲れさせないよう、無用な刺激を避けての旅行だからいたし方がない。
「もう、流れ星、終わりかなぁ」
 妻が消え入るような声で呟いた。気がつくと、いつの間にか山の端が白みはじめていた。

                 平成十九年十一月 小雪  小 山 次 男

 付記

 平成二十二年十二月 加筆