Coffee Break Essay



 『下河荘』 ―シリーズ「寮」―




 考えてみれば長年寮生活をしてきた。

 札幌の男子高の寮を皮切りに、二十八歳で会社の独身寮を追い出されるまでの十三年間、ずっと寮にいた。大学の四年間はアパート生活だが、自炊というだけでトイレ、炊事場、洗濯機も風呂も共同という寮となんら変わらない生活だった。大酒のみの口うるさい木材業を営む大家が、頻繁に我々の生活を監視していた。

 会社の独身寮を出てから結婚するまでも、寮に似た生活だった。一戸建ての古い民家の部屋を、襖で仕切った四名での共同生活だった。

 二十七歳の秋、私は寮生活から開放される喜びを胸に、ワンルームマンションを探し歩いた。当時、会社の独身寮の入寮期限が二十八歳までだった。半年かけて山の手線内をくまなく歩いた。昭和六十二年、時はバブル景気真っ盛りである。独身生活をエンジョイできそうな物件はいずれも高額で、家賃を払うと手元にはお金が残らなかった。早稲田に三畳ひと間のフォークソング時代まがいの下宿を見つけたが、とてもじゃないが住む気にはなれなかった。

 ヤケクソになった結果、杉並の明大前駅の近くにアパートを見つけた。渋谷、新宿いずれも電車で十五分の地の利である。家賃が光熱費も含めて二万二千円だった。学生向けの不動産屋で見つけた物件である。風呂なし共同トイレ、部屋の仕切りは、襖でかろうじて鍵がついていた。

 下河荘は、明大前よりも代田橋駅の方が近かった。甲州街道を渡って産婦人科の前を通り、恐ろしく入り組んだ路地の奥にアパートはあった。名探偵でもそう易々とは探し出せそうにない場所である。

「みどりちゃん、今なにしてるの」

 大久保の声が襖の向こうで響く。大久保は毎日のように、公衆電話からみどりちゃんに電話をしていた。大久保と小林が隣で一緒に共同生活をしていたのだが、休日に雨が降ると大変なことになった。世も末といった身なりの仲間が三、四人集まってきて、ロックバンドの演奏が始まるのだ。彼らはロッカーだった。みどりちゃんはその追っかけだったのかも知れない。

 彼らの大音響にアパートが揺れた。天気がよければ、原宿の歩行者天国で演奏をしているやからである。アパートでの演奏は彼らの既得権で、それに対する不満は一切なかった。なぜなら、彼らはそれ以外の日、部屋でエレキギターを弾かなかったのである。不思議な話である。雨の休日のほとんどを、私は広尾の図書館で過ごしていた。シナリオライターを目指す隣の上野も、外で過ごしていたようである。

 下河荘は居心地のいいアパートだった。二日に一度、七十代の大家屋がわざわざ目黒から来て、アパートの外回りの掃除をしていた。そんな環境で、私は自由を満喫していた。

 下河荘での私は、彼らと深い交わりを持つことなく終わった。上野がシナリオライターの夢破れ、九州に帰ってしまったこともあるが、私も一年四ヶ月いただけである。

 このアパートに入って数ヵ月後、私は妻と知り合った。妻は私のアパートに並々ならぬ感心を抱いた。若い男四人の奇態な共同生活に興味をもったのだ。しかもまわりのアパートにも似たようなものが多く、そこら一帯は当時としても珍しい似たような若者の集まる学生街だった。

 夜になると、風呂桶を持ったものがゾロゾロと路地から出てくる。定食屋も若者で繁盛していた。近所には銭湯が三軒もあり、その当時でも、こういう一時代前の光景は、珍しいものだった。「杉並の奇跡」と称して私が愛着をもったゆえんである。

 この下河荘で、昭和から平成に元号が変わった夜、向かいの女性専用マンションに暴漢が入った。ただならぬ悲鳴に私が部屋を飛び出すと、大久保もどこから持ってきたのか、鉄パイプを片手に走り出てきた。その捕り物劇で、私は警視総監賞をもらった。ちょうど妻と愛の強化合宿を行っている真っ最中のことだった。

 この年、私たちは結婚し、子供をもうけた。かくして私は独身生活に別れを告げたのである。二十九歳のことだった。妻はまだ二十歳になったばかりで、会社の同僚からは、警視総監賞をもらった私が、本当の犯罪者ではないかと冷やかされていた。

 私たちはこの杉並の地を離れがたく、歩いて五分ほどの場所にアパートを見つけた。みね荘という大時代的な名称の古ぼけたアパートだったが、二年半後には練馬に転居した。みね荘が高級マンションに建て替わるので、やむなく立ち退いたのである。

 今でもこの杉並区和泉界隈が懐かしく、数年おきに出かけてみるのだが、下河荘も建て替わってしまったし、神田川近くにあった行きつけの定食屋も風呂屋もなくなってしまった。

 十八年の歳月が流れていた。

                    平成十九年二月  小 山 次 男

  追記

 『下河荘』関連作品 …… 『平成の朝』、『警視総監賞』、『もうひとつの神田川』