Coffee Break Essay



  『川崎高津寮』 ―シリーズ「寮」―




   (一)

 寮長だけにはなりたくないと思っていた。寮生活が長かったばっかりに、会社の独身寮の寮長に祭り上げられた。

 寮長になって二日目の夜、「大きな栗の木の下で事件」が起こった。

「大きな栗の木の下で……あなたとワタシ……」

 という歌声に目が覚めた。時計を見ると午前二時を回っている。KとIの二部合唱が非常階段で響いている。そのうちに、何か大きなものを引きずる音がする。何だろうかと考えているうちに音が止み、そのまま眠りに落ちてしまった。

 朝、トイレに行こうと部屋を出て驚いた。大きな木が廊下を塞いでいたのだ。木の枝に柔らかい青々とした栗がたわわについていた。幹の直径は二十センチもあったろうか。私が廊下に出たとき、賄いのオヤジが、鋸でその大木を解体しようとしているところだった。

 

「おーい、コンドォーッ! バス停、持ってきてやったどォー」

 窓の外で先輩の叫ぶ声がする。駅まで歩いて二十分の距離だった。遅刻しそうになり、朝私が駅まで走る姿を何度か目撃されていた。外に出てみると、寮の前にバス停があった。バス会社に怒鳴り込まれてはたまったものではない。対応は、私がすることになる。仕方なく真夜中にバス停をゴロゴロ転がしながら戻しに行った。途中、酔っ払いに「頑張れよ」とからかわれた。(若い諸氏は、宮崎駿の『となりのトトロ』に出てくるバス停を想像してもらうと理解が早いと思う。バス停は簡単に動かせた)

 

 夜中に「ミーン、ミーン」と鳴いているヤツがいる。窓を開けると、寮生が電信柱にしがみついている。

「おい、落ちるなよ」

 と声をかけると、鳴き声が「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」に変わった。彼は、酔うと決まって電信柱に登った。なぜ、東京電力に就職しなかったかと思うほど電信柱が好きな男だった。ただ、鳴き声が悪かったか、とうとうメスが近づくことはなかった。五十歳を目前にした彼は、いまだに独身でいる。

 

 寮生(正しくは寮社員なのだが、寮生といった方がしっくりくる)の親睦もかねて、四ヶ月に一度くらいの割合で寮会議を行なっていた。

「何かありませんか」

「……」

「何もないの、おい、Aなんかあるだろ?」

「……いんや、ねぇ」

 普段、陰で文句をいっているものに限って、テーブルに視線を落としてダンマリを決め込んでいる。寮生は、私も含め全員が東北・北海道出身者だった。しかもみな、市内から遠く離れた、いわゆる「在」(都市から離れた場所)の出身者である。もちろん、私も「在」である。

 そこで、最初から酒を飲みながら会議をすることにした。

「それでは、寮会議を始めます、カンパーイ!」

 三十分もすると、自然と意見が出てくる。

「オジさん、あの、ちょっといいにくいんすけど、あの消しゴムみたいなサガナ、なんとかならないッスか」

 いつもビックリしたような顔をしている気仙沼出身のSが口火を切る。事前に「あの消しゴム、何とかならないかオヤジ言ってくれ」とSに頼んでおいたのである。

「カジキのこと? 時間が経つと硬くなるんだよな……」

 と賄いのオヤジもほろ酔い気分で頭を掻いている。

「遅番で帰ってくると飯がないんスよ」

 こんな時間だ、もう帰ってこないだろうと、つい別の寮生が夜食代わりに食べてしまうのだ。

「食わねば、朝ナゲルだけだも、もったいねえべよ」

 と青森が反論する。

「犯人、オメだなッ!」

 と岩手。

「帰ってこないヤツは、電話でキャンセルしたらイイベ」

「だども、オジサン寝るの早いがら、電話でぎねえべよ」

 酒が入ると、参議院予算委員会の審議並みの論戦が始まる。勢い余って会議の後、二次会へ走り、新たな事件を巻き起こすのであった。

 私が寮長だった間に、いくつかの重要な決議があった。私は会社のコピー機のガラス面に自分の顔を押し当てコピーし、その下に議決内容を書いて寮内に貼った。米国のOLがパンツを下ろし、コピー機に座った画像を売って副収入を得ていた、というニュースを見てひらめいたものである。顔をコピーすると恐ろしい顔になる。

 まず貼ったのが、「他人のメシは、絶対に食うな」、「廊下や洗面所では、ヘドを吐くな」というもの。水洗便所を使い慣れていない新入社員向けに、トイレには、「クソをした後は水を流そう」だったが、この顔があったら、出るものも出なくなるとすぐに剥がされた。

 食堂には、「カレーライスはスプーンで食べよう」で、カレーライスを箸で食べている新入社員に、

「カレーはスプーンだべよ」

 というと例外なく彼らは、失敗したという顔で赤面していた。私もそうだったが、当時の田舎者はカレーを箸で食べていた。

 だが、これらの張り紙は、すぐに剥がされた。夜遅く帰ってくると、気持ち悪くてやってられないということだった。

 寮生は全員、ガソリンスタンド勤務である。こいつは無理だと判断したらしく、私は三ヶ月でガソリンスタンドをクビになっていた。

 

   (二)

「お宅の寮生、バイクで事故を起こしていますよ」

 という近所の人からの電話が入った。夜の十一時過ぎである。受話器を置いて間もなく、救急車のサイレンが近づいてきた。賄いのオヤジと一緒に駆けつけると、寮の裏道の百メートルほど先で、バイクと一緒に同期入社のTが倒れていた。

「おい、T、大丈夫か」

 と声をかけると、

「うう……むねが……苦しい……」

 同期とはいえ、私は一浪の大卒で、Tは高卒。五歳年下だった。

「なんだテメエ、大卒だからってデカイ顔するなよ」がTの口癖だった。

 そのTが今にも死にそうな声で、芋虫のように丸くなって転がっていた。病院まで同乗してくださいと救急隊員にいわれ、否応なく救急車に乗った。

「Tさん、大丈夫ですか」

 救急隊員の呼びかけに、

「うう……」

 というばかりで、ろくに返事もできない。これはただ事ではないと思った。(後で考えると、問いかけに反応していたということは、重傷ではなかった)

 病院は、寮からさほど遠くない個人病院だった。対応に当たったのは、若いインターンであった。

「指と肋骨が折れている可能性がありますね。一晩様子をみましょう」

 レントゲン検査は明朝でなければできないという。生まれて初めて救急車に乗り、初めて救急治療室を目の当たりにした私は、そんなものなのかと思った。

 個室に運ばれたSは、点滴につながれて、相変わらず唸っている。今なら心電図や血圧のモニターに監視されるのだが、一緒についてきた看護師から、

「三時間くらいで点滴が終わりますから、終わったらこのボタンを押してください。あ、それと、容態が急変する可能性もあるますので、そのときも」

 コーヒーを飲みたいときには遠慮なくおっしゃって、砂糖もミルクもありますよ、という気安さで彼女は出て行った。時計を見たら、すでに午前零時を回っていた。

 私はTが本当に死ぬかも知れないと思っていた。隣の空いているベッドにもたれ、薄暗い部屋で、点滴の落ちるのを固唾を呑んで見守っていた。早押しクイズよろしく、すぐ手の届くところにナースコールのボタンを用意していた。

 午前三時半、やっと点滴が終わってほっとして看護師を呼んだら、にこやかに入ってきた看護師の手には別の点滴があった。結局私は、朝の七時まで点滴のしずくを数えていた。

 明け方、眠っていたTが突然、カッと目を見開いた。スワーッと身構えると、Tがかすれた声で、

「……うう、ションベン」

 と小声でいった。小便が漏れそうだという。何だと! 小便?……クソよりはましかと思い直した。どうやって小便を採ったらいいんだ。まさか、Tのモノを私が引っ張り出さねばならないのかと考えながら、ナースステーションで尿瓶を借りてきた。Tは自分でその尿瓶を蒲団の中に入れた。

「なかなか出ねえ。オメエ、あっち行げ。見るなよ」

 と生意気なことをいう。仕方なく部屋の窓から青白くなり始めた外の風景を眺めていた。スズメの鳴き声があちらこちらでする。ずいぶん時間が経った。

「すまん……たのむ」

 渡された尿瓶には、溢れんばかりの小便が入っていた。屋上ビアガーデンの大ジョッキビールよろしく表面には泡まで立っている。

「お前、途中で止められなかったのかよ」

 と言うと、

「俺も、こんなに小便を出したのは初めてだ」

 とTも驚いている。こぼさないように運ぶのにえらく難儀した。

 Tは相変わらず、胸が苦しいと唸っている。実家に電話するから電話番号を教えろというと、実家には母親しかいないからダメだという。父親が出稼ぎで千葉に来ているというのだ。Tの実家は北海道の松前で漁師をしていたのだが、そのときは何か事情があったようだ。

 レントゲン技師が出勤する時間になり、ベッドの上で唸りながらTはレントゲン室に運ばれて行った。その間、私は寮のオヤジへ電話し、会社へも一報を入れた。

 検査の結果、骨折はなかった。そのことをTに伝えると、今の今まで唸っていたTが、突然、ベッドから起き上がり、

「ホントか。折れてないのがぁ」

 と普通の声で訊いてきた。

「単なる打撲だ!」

 私は憮然としていた。Tはみるみる回復し、その日の夕方には退院した。私の徹夜は一体なんだったのか。えらく損をした気持ちになった。

 だが、この一件でTと私の距離はグーンと縮まった。それまで私を「おい、てめえ」とか「近藤!」と呼び捨てにしていたのだが、さん付けで呼ぶようになった。それもそのはず、ことあるごとに、

「てめえ、俺は、お前の小便を運んでやったんだからな」といっていた。その甲斐あってか、

「近藤さん、ウニ」

 といって実家から送ってきた塩ウニの入ったプラスチックの折りを持ってきた。それまでTは、寮の飯は食えたモンじゃねえと、丼にご飯だけもって部屋に上がっていた。ひそかにウニ飯を食べていたのだ。たまたま用があってTの部屋に入ってそれを発見した。この自家製の塩ウニは、しょっぱ過ぎず甘すぎず、地場でしか味わえないうまいものだった。

 しばらくの間、私も部屋にこもってウニだけで過ごした。Tにはあの一件以来、ケジメとしてバイクに乗るのを禁じていた。ウニが尽きたある日、

「おい、バイク、乗っていいぞ」

 とその禁を解いた。Tのウニは、それほどの絶品だった。

 

   (三)

 川崎高津寮の賄人は、今時めずらしく六人家族だった。子供は男、女、女、男で、上の二人はすでに就職しており、下の二人は小学校の低学年だった。私が寮に入ったころは、下の二人は何の抵抗もなく寮生と一緒に風呂に入っていた。しかも寮生の格好のおもちゃで、犬がじゃれあうようにいつも誰か彼かとプロレスをしていた。そのうち、次女がその遊びから抜け出した。胸が膨らんできたのである。

 あるとき、食堂で遅い夕食をとっていると、弟が擦り寄ってきて、

「ねえねえ、近藤さん、いいこと教えてあげようか」

 とニコニコしている。

「お姉ちゃんさ、今日、ブラジャー買ってきたんだよ」

 悪ガキは満面の笑みをたたえている。その日次女は、中学校への進学準備のため、母親と一緒に買い物へ行っていたのだ。

「お前、そんなことオレにいちいち報告せんでもいい」

 私に叩かれた頭をかきながら、

「だって変じゃん、ぺチヤパイなのにさ」

 マサルの言い分もわかる。お母さんも大姉ちゃんも巨漢体質で、バストは優に一メートルを超えていた。マサルはこの秘密を誰かに伝えたくて仕方なかったのである。

 マサルは中学生になっても、平気で風呂に入ってきた。

「オイ、マサル、チンポに毛、生えてきたか」

「ん……少し生えてきた」

「どら、見せてみろ」

 寮生生活をしている賄いの子は、一般家庭の親が羨(うらや)むような環境にいる。常に誰かが遊んでくれるので、寮である自宅が楽しくて仕方がないのだ。そんな中、マサルは天真爛漫に育ちすぎていた。勉強がまるでダメだった。見かねた父親が、私に英語の勉強を見てくれと頼み込んできた。

 マサルがしぶしぶ教科書を持って食堂に現れた。もうすぐ二年生だというのに、教科書は新品同様だった。これはかなり手ごわいなと思い、

「マサル、お前サッカー好きだよな、手は英語で何だ」

 と訊くと、即座に、

「ハンド!」

 と返ってきた。

「じゃ、頭は」

「ヘッド!」

 得意気である。

「よし、いいぞ。じゃ、足は何だ」

「んー、キック!」

 一段と元気のいい声が返ってきた。私が思わず吹き出すと、

「あ、間違えた……シューズ?」

 やはり重症である。教科書レベルの問題ではなかった。まずは身近な英語遊びから始めた。

「耳は、イヤー。イヤ・ホーンっていうだろ。ホーンは音、ヘッド・ホーンっていうだろ」

「家はハウス。ハウス食品のマークは家だ。ホームともいう。野球のホームベースのホームだ」

 といったのはいいが、ホームとハウスの違いが覚束ない。とりあえず、家はハウスで、帰る自分の家をホームとごまかした。

「じゃ、ホーム・ルームって」

 と訊かれ、苦し紛れに膝蹴りを食らわせ、

「ニー・パット。ニーは膝だ」

 かなりいい加減な家庭教師である。オヤジは、いかがわしい勉強が終わるたび、缶ビールを持ってきた。いくらいらないと言っても持ってくるのだ。この勉強、いつまで続いたか記憶にはないが、仕事が忙しくなり私の帰りが遅くなるにつれ、自然消滅した。

 マサルは平気で二階の私の部屋に入ってきたが、次女のアイ子が来ると、母親は心配なのである。階下からアイコー、と呼ぶ声がする。アイコは小柄でかわいらしい中学生になっていた。母親の目を盗んでは私の部屋に遊びに来ていた。 

 私が寮を出る日、学生時代に使っていた英文タイプライターをアイコにプレゼントした。まだ、ワープロもパソコンもない時代である。玄関に立ったアイコが、必死に涙をこらえる姿が印象的だった。

 

                    平成十九年二月  小 山 次 男

 

 追記

 『川崎高津寮』関連作品 …… 『田舎者』