Coffee Break Essay



  『辻寅寮』 ―シリーズ寮 3―




  (一)

 地元の大学に進学する者は別として、北海道の受験生の大半は、東京の大学へ行く。私は右へ倣えが嫌で、迷わず京都へ行った。

 大学の広い講堂の壇上に、お偉いさんがハの字に並べられたパイプ椅子に座っている。入学式が始まって演台の奥のカーテンがおもむろに開き、ギョッとした。金ピカの仏壇が現れたのだ。シマッタ! と思ったが、時すでに遅し。お偉いさんの大半は、袈裟を着た坊さんだった。私はアーメンから一転、南無阿弥陀仏に転向したのである。

 京都でのアパートには名前がなかった。私は辻寅下宿とか単に辻寅とか呼んでいたが、辻寅アパートとか辻寅ハイツと呼んでいる者もおり、みんな好き勝手にしていた。京都市伏見区深草ススハキ町……という住所(当時の住居表示)の横に「辻寅方」と入れれば事足りた。アパートは大家の経営する木材会社の敷地内にあった。

 アパートといっても学生寮まがいの建物だった。一階は木材置き場で二階三階が居室だった。廊下を挟んで五部屋が向かい合っている。トイレ、洗濯機、炊事場は共同である。風呂がなかったのが辛かった。一年間銭湯通いをした後、木材置き場の片隅に風呂を造ってもらった。五右衛門風呂だった。豊富にある木材の切れ端が燃料だった。

「ガミさん、そろそろ床屋たのむでェ」

「ほんまにィ、ちょうどよかった。なあ、なあ、パーマかけさせてくれへん。な、な、なぁー、ええやろ」

「えッ……」

 学生時代の四年間というもの床屋へはほとんど行かなかった。アパートの二階に美容師見習いの女の子が二人いた。二階の男たちは、彼女らの格好の実験台だった。散髪は廊下に新聞を敷いて行われる。私に続いて二階の男たちは、一斉にパーマをかけられた。

「なんやその頭は」

 と学校で笑われ、その夜、バリカンで刈り込んでもらった。

「うちな、バリカン初めてなんよ。意外とコレ難しいンやなぁ」

 時々、バリカンの先端が頭皮に当たって痛い。

「うわー、失敗やワ、かんにん」

 といって笑い転げている。鏡を覗いてギョッとした。漫画にでも出てきそうな虎刈りだった。

「これはもうしゃーないでぇ。あきらめぇ」

 部屋から出てきたもうひとりの女の子が、私を丸刈りにした。私の劇的な転身に、学校では、「自分、お寺の子やったんか」とか、「得度しはったん」とみんなが頭をなでにくる。しばらくの間、私は「アタマ」と呼ばれた。

 アパートの女の子側の五室のうち、真ん中の部屋を、大家が宴会場として空室にしていた。奥さんには内緒である。宴会は月に三、四回のペースで行われた。主役は大家である。

「今夜、いっぱいやろか」

 首から提げたタオルで汗を拭きながら、大家がお猪口を口に持って行く仕草をするのが合図である。ズボンのポケットから取り出したくしゃくしゃの一万円札を手渡される。材木代金をピンはねしたお金である。

「おい、宴会だ!」

 アパートにいる二、三人を集め、大急ぎでなべの材料と酒を買出しに行く。アパートには大酒のみの学生の坊さんがおり、その坊さんがすべてを取り仕切った。夕食代が浮いて助かったが、試験があろうがなかろうが、関係なしの宴会には閉口した。

 宴会のセットから料理まで、すべて男たちが取り仕切った。四人の女の子たちはみな社会人だった。彼女らは、宴会の最中に帰ってきて途中から参加する。アパートに風呂を造らせたのは、彼女らの功績である。

「なぁ、大家さーん。お風呂つくってぇーな、おねがーい」

 人間の鼻の下というものは、本当に伸びるということを、そのときの大家を眺めて知ったことである。

 風呂が完成して最初に入ったのは大家である。五右衛門風呂であるから、浴槽の直下で火をくべる。

「大家さん、湯加減はどうですか」

「さいこーやな。もそっと木ィ、くべてくれるか」

 張り切って木材を入れすぎて、危うく大家を茹でそうになった。

   (二)

 初めてガミさんを見た者は、たいがい暴走族の女だと思う。スラッとした長身で茶色のパンチパーマ風の頭、派手な化粧に紫のサンダル履き。とんでもない女がアパートにいると、最初のころは、こちらからは声をかけられなかった。美人ではないが、呆れるほど快活な女性だった。

 私の部屋は、出口のそばで公衆電話が目の前にあった。アパートの住人にかかってくる電話の取次ぎは、もっぱら私がやっていた。

 夕方、いつものようにかかってきた電話は、ガミさんからだった。

「ああよかった、コンドーさんで」

「……」

「こっち、今ひっどい雨なんよ。私な、洗濯物干しっぱなしなんや、屋上に」

 窓の外を見ると、真っ黒な雲がたれ込め、宇治の方角から雷鳴が聞こえる。

「急いで取り込んでくれるかぁ。部屋の鍵、開いてるしぃ。――下着、干してんねん。絶対、見たらあかんで」

「アホかいな。見なかったら取り込めへんやろが」

「せやけど絶対、見んといて。見たらあかんで。こんなこと頼めるのコンドーさんしかおらへんのや。な、お願いやから見んといて」

 絶対見ないと約束して屋上に上がると、盛大に干してある。大急ぎで取り込んで彼女の部屋のベッドの上に放り投げた。十九、二十歳の女の子が部屋の鍵もかけないで仕事に行くのである。のどかなアパートだった。

 夜になって、タッ、タッ、タッと階段をせっかちに駆け上がる音がする。ガミさんやなと思う間もなく、開けっ放しの部屋のドアから顔が覗いた。

「ありがとぉう。ホンマ助かったわぁ。――見いひんかったやろなぁ」

 凄んだ顔でギョロッと睨まれた。

「そんなん見るかいな。えらい難儀したわぁ」

「ならええねんけど……今度またパーマかけたるからなぁ。さあ、風呂いこ、風呂!」

 まだアパートに風呂がなかったころで、我々二階の男たちは女の子が帰ってくるのを待って、連れ立って銭湯へ行っていた。

 私は夏になると走りたくなる性癖がある。アパートから京都駅までの往復五キロほどを毎夜、ジョギングしていた。最初、ひとりで走っていたのだが、そのうちにガミさんが加わった。タンクトップに太股をニョッキリと出したパン姿のガミさんと走っていると、通りがかりの人が振り返る。途中、自転車やバイクに乗った不良っぽい若者が付きまとってくる。

「アホー! 見せもんちゃうねん。あっち行け!」

 ガミさんの凄まじい形相と声に、みんなすぐに退散した。そのうち、アパートの剣道部やスキー部、野球部までもが走るようになった。

 ガミさんと私はウマが合ったが、恋愛感情を抱くような関係ではなかった。毎夜のように、ガミさんの部屋には大工のKクンが泊まりに来ていたからだ。Kクンは夜遅くにそっと来て、知らぬ間に帰って行く。それは私が卒業するまでの四年間続いた。Kクンとはたった一度だけ言葉を交わしたことがある。

 ある日、ガミさんが夜遅くに私の部屋に来て、

「なあ、お願いがあるんやけど……。今日、私の部屋で一緒に寝てくれへん」

 と拝まれた。私は耳を疑った。

「昨日な、怖い夢見て、なんやら寝られへんのや。夢が引きずってアカンのや」

 という。

「Kクンはどないしたんや」

「それがな、きんのう喧嘩してもうてん。そやし、今日は来えへん」

 それは無理だと断った。万が一、Kクンが来たら大変なことになると思ったのだ。

「あんたがおってもKクンは、大丈夫や」

 訳のわからないことをいう。男なら願ってもないチャンスと小躍りするところだが、Kクンのことを知っているだけに私も後ずさりした。

「俺も男やし、間違いなく襲うで。それでもええか」

「そんなことさせるか、アホ。か弱い女の子が泊まってくれと頼んどんのに、泊まらん男がおるかい」

 そうまでいわれるとこっちらにも意地がある。よし、行こうということになったが、淡い期待もあった。部屋に入るとすでに蒲団が敷いてあった。四畳半なので足の踏み場もない。

「私はここで寝るさかい。アンタはこっちやで。来たらアカンでぇ。ほな、お休み」

 といってさっさと電気を消したガミさんは、ベッドに潜り込んでしまった。真っ暗な部屋の中で、やっぱりマズイと思った。

「……やっぱ、ガミさん、これ……マズイで。Kクン来たら、オレ……殺されっどぉ」

「大丈夫やて、お休み……」

 暗い天井をみながら、オレを挑発しているのではないか、と考えた。

「ガミさん、そっち行ってええか」

 ガミさんのベッドへ行こうとする素振りを見せたとたん、バッシッと手をたたかれる。

「オレ、やっぱり帰るわ」

 というと、

「あかん、あんたはそこで寝るんや!」

 困ったことになったと思った。どうしたものかと悶々としていたとき、部屋のドアがスーッと開いた。Kクンだった。私は蒲団から跳び上がった。

「あッ! あー、どうも、どうも……今日はあの、泊まってくれって言われて……あの、ホントもう帰ろうかなって思ってたんです。どうも……」

 しどろもどろもいいところである。

「えら、すんまへんでしたなぁ」

 とKクンにいわれ、私はほうほうの体で退散したのだった。

「俺もな、長いこと人生やってるけど、あんな女、見たことないわ。ホンマ、ガミさんには、かなわんわ」

 大家の口癖だった。ちなみにガミさんの父君、京都御所を警護する皇宮警察官である。

 私がガミさんから学んだことは、世の中にこんなにも快活でザックバランな女が存在するということと、女のパンツというものが、案外と汚れているということだった。

 ガミさんはKクンと結婚しただろうか。幸せな家庭を築いていればいいのだが、と思うことがある。

   (三)

 学生時代を通して一貫した私の悩みは、太れないことだった。一六七センチの身長に、五〇キロを切る体重で、手羽先が歩いているような体つきだった。よく食べる方なのだが太れない。

 二回生ころから、自炊をするようになった。外食に飽きたのだ。食器は、どんぶりと皿一枚と割り箸、それだけだった。割り箸は、何度も洗って使っていると、飴色になり角が取れて丸くなる。愛着がわくころ、折れてしまうのが残念だった。

 炊飯器は三合炊きだったが、三合炊いても一度に全部食べてしまうことがあった。面倒くさいので、炊飯器に納豆と生卵を直接入れ、そのまま食べていた。辻寅には運動部が多かったせいか、だいたいみんな似たようなことをやっていた。

 私が作れるメニューは、目玉焼きかスクランブルエッグ、肉類は全部塩胡椒の味付けだった。肉は高かったので、玉子と納豆が多かった。たまには野菜を摂らなきゃならないと、丸のままのレタスにマヨネーズをかけ、リンゴでもかじるように、ひと玉丸ごと食べていた。

 あるとき無性に、ほうれん草のおひたしが食べたくなった。母に電話して、

「ほうれん草のおひたしって、どうやって作るんだ」

 と訊いたら、

「あんた……」

 といったきり、涙声になってしまった。以後、母に食事の作り方を訊くのはやめた。

 だが、一度だけ失敗した。会社の独身寮を出て、再び自炊を始めたとき、無性に味噌汁が食べたくなって、うっかり作り方を訊いてしまった。

「あんた、自炊って、何作れるんだい……」

 実は最近まで、うどんやそばの作り方を知らなかった。しばらく料理をしないと、すぐに作り方を忘れてしまう。根っからの料理オンチである。そんな私も、妻が長患いをしてから、一切の食事を作っている。まる九年になるが、私の料理を美味いといって食べる娘が、不憫に思えてならない。

 

「あんたら弟みたいやし、なんにも恥ずかしいことないわ」

 薄手のカッターシャツの下は、パンツ一枚。山下姉さんはそんな格好で廊下をうろついていた。歩くとパンツがチラチラと見え隠れする。頭がどうにかなりそうだったのは、私ひとりではなかった。

 山下姉さんはシャンプーのCMに出てきてもおかしくないほどの美人だった。私より三つ四つ年上だったから、二十二、三歳である。とても手の届かないような大人だった。

 私が、余ったご飯でチャーハンまがいなものを作ろうと、洗面所謙炊事場で悪戦苦闘していると、

「アカン、アカン。もう、じれったいなぁ」

 といって山下姉さんがチャッ、チャッ、チャと作ってくれるのだ。姉さんに限らず、辻寅の女の子らはみんな、さっと炊事場に現れて、チャッ、チャッ、チャと料理を作ってしまう。女にはかなわないと思った。

 あるとき、伏見稲荷の肉屋で鶏の皮が六百グラム二百円で売っているのを発見した。それを塩コショウでカリカリに焼いて食べると抜群に旨かった。さらにシシトウ(伏見唐辛子)を塩コショウで炒める。このメニューは飽きなかった。私がそんな料理を発明すると、男たちがこぞって鶏皮シシトウ(私の命名)を食べるようになった。伏見稲荷の肉屋から鶏の皮が消えた。

「あんたら、こんなんばっか食べとったら、アカンよ。からだ壊すでぇ」

 と肉屋の母ちゃんに怒られた。怒るぐらいなら、豚肉を安く売れと思った。

 この鶏皮シシトウを食べ続けた結果、太れなくて悩んでいた私の体重が、六十キロになった。嬉しかったが、肉屋の母ちゃんのいうとおり、脂肪肝になってしまった。

 以来私は、太る体質へと転じ、今日に至っている。

                  平成十八年十二月  小 山 次 男

 追伸

 『辻寅』関連作品 …… 『祝電』、『ぺヤング』、『五右衛門風呂とオッパイ』、『青春の師』、『鶏皮シシトウ』

  平成十九年二月 加筆