Coffee Break Essay



  『大志寮』 ―シリーズ寮 2―



  (一)

 受験した大学に片っ端から落ちた。最後にやっと合格通知をもらったのが、予備校の入寮試験だった。とりあえず喜んだ。

 寮の名は、大志寮。北大(北海道大学)のはずれ、旧ポプラ並木の出口からほどないところに寮があった。二十五名ほどの小所帯である。

 入寮当初私は、ほかの寮生とはなかなか馴染めなかった。最後まで、寮の仲間に加わらなかったのは、私と隣の部屋のドストエフスキーだった。

 ある夜、私が部屋で英語の教科書を音読していると、ノックの音がする。ドアを開けると、黒のタートルネックのセーターに、ウエーブのきつい長い髪を目元まで垂らした隣室の男が立っていた。演奏を終えた直後のオーケストラの指揮者のような格好だった。

「君ィ。熱心に勉強しているところを申し訳ないんですが、もう少し小さな声でやってくれませんか」

 私は驚いた。彼の苦情にではない。その口調と外国人のような身振り手振りにである。それで彼をドストエフスキーと命名した。彼には同じ年の若者とは思えない、変な成熟感があった。容貌も神経質そうで、恐ろしく老けていた。

 小さい声で音読していたのにどうして聞こえるのかといぶかしみながら、今度は無声音に近い音量で読んでいると、またドアが鳴った。

「君ィ。まだ、聞こえるのですが……」

 こいつは、いよいよもって変な男だと思った。

 翌朝、ノックの音で起こされた。今度は何だと構えたら、昨夜は、神経が高ぶっていて申し訳なかった。コーヒーを淹れましょうといわれ、彼の部屋に招かれた。部屋に入って息を呑んだ。四畳半の部屋を本が埋め尽くしていた。ほとんどが外国の哲学書である。こいつはいよいよもってドストエフスキーだと目を丸くしていると、

「日本の小説は、ほとんど全部読んでしまいました」

 と、途方もないことをいった。インスタントコーヒーしか飲んだことがなかった私は、コーヒー豆を嬉しそうに挽いている彼を見ながら、本を読み過ぎるとこういうことになってしまうのか、とまじまじと彼を眺めていた。

 かくして私たちは友達になった。一年間の生活の中で、彼は最後まで私のことを「君ィ」といい、丁寧語で通した。あまりに君ィ、君ィというもんだから、私はドストエフスキーを改め、「教授」と呼ぶことにした。

 しばらくしてやっと寮の仲間に馴染んだ私は、最後に取り残された教授をみんなの前に引っ張り出した。彼の風変わりな挙措動作に、誰もが目を見張った。教授は一夜にして寮生の人気者になった。

 寮の食事の休みの日は、北大の生協で昼食をとることが多かった。ポプラ並木の出口から侵入する我々は、観光客の格好の被写体となった。北大生と思われたのだ。絵画を見るようなポプラの老並木は、倒木の危険があるらしく、立ち入り禁止だった。

 観光客の前やキャンパス内で、我々は教授のことを「教授!」とわざとらしく大きな声で呼ぶ。そのたびに例の大仰な身振りで「君ィ、やめたまえ」という教授のリアクションを楽しんでいた。

 寮にはもうひとり変わり種がいた。その男は一八〇センチを超す痩身で、頭には強い天然パーマがかかっていた。風貌が、どことなくあのワラビに似ていた。ワラビだとあまりにも直接的なので、「ワビラ」と呼ぶことにした。ワビラは、分厚い眼鏡をかけたガリ勉男であった。

 あるときワビラが、目尻から血を流して帰ってきた。寮に帰る途中、電信柱に衝突したというのだ。割れたメガネを手にしていた。寮から予備校までは歩いて二十分ほどの距離で、ワビラはいつも英語の単語帳を読みながら歩いていた。熱中し過ぎたのだ。電柱にぶつかってメガネを壊したのは、二度目だという。

 このワビラと札幌市内を歩いていて、危うく遭難しかけたことがある。受験間近のある日曜日、我々は勉強のために図書館に出かけた。前夜から雪が降っていた。昼を過ぎたあたりから吹雪が激しくなってきたため、早めに切り上げることにした。

 外へ出ると三十センチほどの積雪があった。寮まで歩いて三十分ほどの距離だった。ブリザードを思わせるような猛烈な風が吹いていた。体感温度は、氷点下十度を下回っていただろう。たいがいの吹雪には動じないのだが、このときのはとりわけひどく、車もほとんど走れない状況だった。

 顔面に吹きつける地吹雪で、視界がまるで利かない。肩にかけていたショルダーバックを首から掛け直し、我々は腕を組んで歩いた。一人で歩くのさえ難しく、会話すらままならない。そのうちに肩を組み、最後には抱き合うような格好で歩いた。寒さが尋常ではなかった。行き倒れるのではないかと思った。八甲田山ならまだしも、札幌の住宅街である。雪に足をとられながら、一時間以上もかかって這々(ほうほう)の体で寮にたどり着いた。

 玄関に座りこんだ我々は、しばらく動けなかった。精根尽きたのだ。寒さで手足が痺れ、顔面がジンジンと疼いている。耳が千切れたのではないかと鏡を覗くと、二人とも鼻が赤茶色に変色していた。凍傷だった。翌日から腐ったリンゴのように鼻が茶色になり、瘡蓋が取れるまでひどい顔だった。みんなからは「鼻」と呼ばれた。

 翌日、予備校で模擬試験があった。私は運悪く最前列の席だった。教壇に立った試験官が、私の鼻を見て嬉しそうな顔をしている。よく見ると、試験官の鼻の頭も変色して皮がむけていた。

  (二)

 模擬試験で思い出すのが、北海道の受験生を対象とした模擬試験、通称「道模試(北海道模試)」である。我が大志寮には、「道模試」ならぬ「寮模試」があった。寮生が一室に集って、予備校にいる女の子の人気投票をやるのだ。第一回の優秀賞は、ひな子だった。とても大人びた魅惑的な女の子だった。満場一致だった。

 高校の三年間を男子校で純粋培養された私にとって、女の子は近寄りがたい存在となっていた。三年間で、同級生の女の子たちが、一様に大人びた女性に変貌していたからである。予備校通いが始まったころは、教室の女の子が気になって勉強どころではかかった。

 第二回の寮模試は難航した。予備選考で五名ほどに絞込み、決選投票で優秀賞を決めるのだ。真面目に議論して最終的に、

「私立文系四組、赤いスカートの女。さあどうぞ」

 というオークションまがいの長沢の司会で挙手による投票が行われる。ひな子は別として、名前を知っている女の子の数が少なかった。結局、私が推した「日本史の君」が、優秀賞になった。「日本史の君」は、日本史の授業のときだけ現れる、目のパッチリした楊貴妃のような女の子だった。

 表彰状の授与式は、予備校で決行される。画用紙で表彰状を作り、受賞した女の子に受け取ってもらうのだ。長沢の合図で我々は赤穂浪士の討ち入りよろしく、すばやくその女の子を取り囲み、唐突に表彰状を読み上げ、強引に手渡すのである。

 第一回のときは、長沢が表彰状を読み上げている最中に、ひな子に逃げられてしまった。ひな子が我々に驚いたのではなく、長沢がカマキリのような顔をしているのが原因だった。そこで二回目以降は、寮生きっての男前の幅田を起用した。我々に取り囲まれた「日本史の君」は、何が起こっているのか状況がつかめず、今にも泣き出しそうになっていた。

 女の子というものはだいたい、二人か三人で行動している。受賞者の相方は、どんな思いで我々を見ていたのか。ずいぶんと酷なことをしていたものだと思う。

 寮模試は第三回まで行ったが、対象の女の子が尽きたのと、近づく受験で自然消滅してしまった。

 秋が過ぎたあたりから、私は不眠症に悩まされるようになった。夜が白み始めてやっと寝付くという日々が続いた。たまらず、近所の病院へ行き、睡眠薬を所望したが、癖になるからダメだと一蹴された。

 今なら酒を飲めば済むことだが、当時はそんな考えも及ばなかった。バレたら退寮である。どうしたら眠りにつけるかと試行錯誤した。その結果、寝る前に腕立て伏せと腹筋をウンザリするほどし、体が温まったところで、素っ裸になる。もちろんパンツも脱ぐ。冷たく固い床に正座し、目をつぶったまま瞑目し、何も考えないようにする。足が痛くなる限界ギリギリまでやった後、布団に入る。これが案外と効いた。

 そんなことをしているうちに、風邪をひいた。クリスマスイブの夜だった。夕方から喉が痛み出し、夕食後は蒲団にもぐり、ガタガタと震えていた。寮の仲間は、こぞって札幌市内で行われるクリスマスパーティーに出かけて行った。イブの夜、札幌の街角には聖歌隊が出している。クリスマスの楽しい夜を味わいたかったが、ひどい悪寒で、それどころではなかった。

 頭から蒲団をかぶり、気を紛らわせるためにラジオのスイッチを入れた。様々なクリスマスソングが流れていた。しばらくして、外国語の歌になった。その歌に耳を疑った。

「アベマリア グラチアプレナ ドミュヌステイクン ベネディクター トゥ……」

 歌詞を知っていた。週に一度あった高校の宗教の授業で、神父の後に続いていやいや唱和していたラテン語の祈りだった。心にしみる旋律とともにその歌詞を聴いていたら、わけもなく涙が溢れてきた。

 受験が終わった順に、寮生は寮を出て行った。受験シーズンになると、誰がどこにいるのか、全くわからなくなる。私は、京都で大学生活をしていた従兄のアパートに、一ヶ月ほど滞在していた。試験が終わり寮に戻ると、大半の寮生がすでに寮を引き払っていた。

 そんな中、寮模試幹事の中の二人が、学習院に進学した。我々の世代は、皇太子殿下(当時は浩宮様)と同世代だった。

 「トリスを飲んでハワイに行こう」(当時流行した、CMのキャッチコピー)ではないが、「学習院に行ってご学友になろう」という密やかな憧れがあった。もっとも殿下は現役で入学されているので、一浪の我々にはそのカードはなかった。

 ちなみに大志寮は、私立文系コースの寮だったので、北大に行ったものはいない。

                   平成十八年十一月  小 山 次 男

 追記

 平成十九年二月 加筆