Coffee Break Essay



  『プログラム六番応援合戦』



 鼓笛の音。十月の空。入場行進。

 忘れていた光景が甦り、失われた時間が戻ってきた。胸に透明な懐かしさが込み上げ、ほとんど涙がこぼれそうになっていた。

 前夜、十五日の月が雲の合間から蒼い光をキラキラさせて、明日の運動会を告げていた。朝方、パラリと降った雨もすぐに上がった。

 娘の幼稚園最後の運動会の日がやってきた。

 前年の運動会の時、「とても私にはできないな。よくやるよなあ」と漠然と眺めていた父兄扮する応援団長の姿が浮かんだ。それが突然、自分のことになってしまった。妻から会社へ電話がかかってきたその時から、プログラム六番は始動した。運動会の役員をやっていた妻が引き受けてきたのだ。

 幼稚園最後の運動会だから……それが妻の決め言葉であり、私の決心となった。

 法被(はっぴ)を着、襷(たすき)をかけてもらい、鉢巻(はちまき)を締め、私は応援団長となった。背筋に緊張が走る。妻が心配そうに法被の襟(えり)を直してくれた。運動会の打ち上げ花火を、寝ぼけ眼の蒲団の中で聞いたときから、私は蛹(さなぎ)のように硬くなっていた。

「さあ、行きますよ」

 先生の掛け声に、口の中から心臓がはみ出した。

 ゆっくりと歩いてグランドを一周。雲の隙間から太陽が微笑んでいる。空だけを見て歩いた。次第に気持ちが落ち着いてくる。

「ピョンと登場! うさぎチーム応援団!」(ド・ドーン)

「いくぞ!」(オー!)

 拡声器(スピーカー)から流れる自分の声が、十月の空に吸い込まれてゆく。緊張の中で爽快感が広がる。子供たちの躍動が伝わってくる。みんなが見ている。その顔が次第に私にも見えてくる。あの人も見ている。この人も見ている。

 そんな中、たくさんの視線の中に埋もれ、消え入りそうになっている娘の目を見つけた。今まで出会ったことのないチチを彼女は視ていた。私が小さく目で合図すると、娘の表情はたちまちに氷解し輝いた。人垣の中で妻の目もほころんでいた。

 皆が応援している。妻と娘と私のエール交換。

「フレーッ、フレーッ、うーさーぎー」(オー!)

 演技終了後、応援団の子供たちが一斉に私に飛びついてきた。後ろの方でニコニコしていた先生に深々と黙礼し、十月十日は闌(た)けていった。

 今でも、ワァー(ド・ドーン)という歓声がときおり聞こえてくる。

                   平成十六年十二月大雪  小 山 次 男

 付記

  「プログラム六番応援合戦」は平成七年、練馬幼稚園会報「ときわぎ」に発表したものに加筆。