Coffee Break Essay



   『小樽のひとよ』




学生時代、帰省の足は、たいがい飛行機であった。
当時、スカイメイトを利用すると運賃は半額になった。
スカイメイトが適用されなくなってからは、船を利用することが増えた。
舞鶴と敦賀から一日おきに小樽へ向けてフェリーが出ている。
夜の十時過ぎの出港で、翌々日の朝の五時前後に小樽港に着く。
三十三時間の船旅である(現在は高速フェリーが周航し、かなり早くなっているようだ)。
小樽からは、さらに六時間の汽車が待っていた。
少ないお金と豊富な時間、そして漲る体力が、そんな選択を可能にした。

夏の帰省では、鏡のように穏やかな海に、日がなデッキに出て過ごす。
どこを見回しても水平線。
地図で見る日本海は、湖を大きくしたようなものだが、実際に見ると途方もなく大きい。
白い波しぶきとウルトラマリンの青い海。船はその海面を砕いて進む。
デッキを散歩したり、本を読んだり、ラウンジでは映画の上映やアトラクションがあり、
バスケットボールが出来るほどの体育館や大浴場まで備えてあった。

二日目は、佐渡島がはるか右手に見えるだけで、
大海原の只中を揺れすら感じることなく、すべるように走る。
目標物が何もないので、スピード感がつかめない。
ときおり、イルカの群れが、競争するように追いかけてくる。
夜になると満天の星空が出現し、日本中のどの場所に比しても、
この船上からの眺めに勝るものはないと思った。
しかし、いくら設備が整っているとはいえ、行動範囲の狭さに退屈感は否めない。

楽しみは、食事であった。船賃は驚くほど安いのだが、食事がビックリするほど高い。
旅慣れている若者は、カップ麺をたくさん持参している。
おぼろげな記憶では、客室は上からスイート、特等、一等、二等寝台、二等和室であったように思う。
和室というのは、桟敷(さじき)席のような絨毯(じゅうたん)敷きで雑魚寝(ざこね)スタイル。
若者は圧倒的に二等和室が多かった。
船中で息統合し、旅行を供にする者や、もちろん恋の萌芽もあったろう。

船内での出会いはなかったが、面白い体験はあった。

夏のことである。下船してすぐに、ライトバンを運転するアメリカ人女性に声をかけられた。
札幌まで出たいのだが道が分からない。
方向が一緒なら乗って行かないかという。ドキッとした。
相手は二十代後半といったところで、ジーンズの短パンに白いTシャツ、
首には赤いバンダナを巻いた、いかにもアメリカンスタイルの美女である。

道など分からなかったが、勢いでOK、サンキュー・ソー・マッチと言って、
助手席に乗ってしまった。逆ヒッチハイクである。
いろいろ話しかけてくるが、お互い解できず、終始チグハグな会話であった。

彼女はフリーのカメラマンで、富良野へ写真を撮りに行くという。
よく見ると、ライトバンの後ろには蒲団が積んであり、
そのまわりには鍋やフライパンといった生活用品に混じって、
大きな望遠レンズのついたカメラが数台あった。
こんな美しいお嬢さんがひとりで大丈夫なのかという思いと、
日本人にはない逞しさを感じた。

どんな話をしたかは、覚えていない。
日焼けした腕が朝陽を受けて、金色の産毛が風になびいていたのが印象的だった。
私も一緒に行きたいと言えば、喜んで連れて行ってくれそうなひとだった。

別れぎわ、記念に漢字で何か書いてくれと差し出された取材用のノートに、
しゃれた言葉が浮かばず、自分の名前とどうも有難う程度のありきたりなことを書いた。
アメリカ人だから、お別れのチューがあるのではと期待していたが、
気を利かせてくれたのか日本式にサヨナラと言って握手で別れた。

いい旅ばかりではなかった。冬に乗ったときには、ひどい荒天に遭遇した。
全長二〇〇メートルほどの船が、笹舟のように揺れた。
食堂も閉鎖され、かろうじて売られていたのはおにぎりだけ。
船に弱い私は、それすらも食べられず、ただ船のローリングに合わせて呼吸を整えながら、嘔吐と闘っていた。
穏やかな海ばかりだった油断であった。

瀕死の状態で、明けやらぬ小樽港に降りた。
雪がしきりに降っていた。大勢の人が降りたが、瞬く間に散り散りになって消えてしまった。
バリッとした外気に、身が引き締まる思いがした。

方向も分からないまま、感をたよりに駅を目指して歩き出した。
当時の私は、昔、「カニ族」といわれた若者と同じ山吹色の布製の大きなリュックを背負っていた。
除雪前の雪は膝まで達した。
久し振りの雪の感触が懐かしくもあったが、寒さに閉口した。

誰もいない青白い夜気の残る坂道を、あえぎながら登った。
遥か向こうに新聞配達をする青年が見えた。
深い雪を漕ぐようにして真っ白い吐息をまといなが、らこちらに向かって走って来る。

すれ違いざま、大きな声で「おはようございます」と言われた。
不意であった。返事をしようとしたが、口がこわばってロレツが回らなかった。
よく見ると高校生くらいの女の子であった。
頬を真っ赤にし、新聞の束を脇に抱えながら走り去って行った。

どうだい! いよいよ帰ってきたぞ、そんな思いが込み上げてきた。
後にも先にもあんな清々しい挨拶を受けたことはなかった。
急に元気が出てきて「小樽はーさむーかろー、とぉ〜きょ〜おぅ〜もー」を何度も何度も繰り返しながら、駅に向かった。

青春の淡い想い出である。


                     平成十四年十一月  小 山 次 男