Coffee Break Essay



  『遅くても春は春』




 今年、四十五歳になった。私の中には、もう四十五という思いと、まだ四十五歳だという気持ちがある。その《もう》と《まだ》がしばしばせめぎ合う。だが、《もう》の方が圧倒的に勝っている。

「俺たち、あと五年で五十歳になるぞ」

 と友人にメールを送ったら、あと十五年で還暦だ、と返って来た。二十代が青臭く見えて仕方がない。十代はまぶし過ぎ、直視に堪えない。すでに十代の過半数は平成生まれになっている。もうそんなことになってしまったか、と溜息をつく。

 先日、自宅近くの自販機でタバコを買っていたら後ろの方で、

「旦那さん、旦那さん」

 と呼ぶ声がする。何だろうと思って振り返ると、タバコ屋の婆さんが私の後ろに立っていた。私のことを呼んでいたのだ。タバコの銘柄が読めないので教えてくれないかという。

「最近のタバコはさ、どれも長ったらしい横文字で、私にはさっぱりわらないよ。どうなっているのかね」

 八十に届くかという婆さんである。

 そんなことがあった数日後、同じ商店街で焼き鳥屋のオヤジから、

「旦那さん、ぜんぶ塩でいいんですね」

 と、また“旦那さん”に出会った。商店街では、もう私は旦那さんなのだ。ふと思った。三十代の独身女性が「奥さん、安くしとくよ、どうだい」と言われたら、さぞかしショックだろうな、と。

 そもそも私は、歳をとることなど想定していなかった。だから、二十八歳になったとき慌てふためいた。もうすぐ三十だ、と。三十歳の自分が描けなかった。突然、どこか遠くへ行きたくなり、蒲団の中で考えているうちに奈良へ行こうと決めた。昼を過ぎていたが、大急ぎで顔を洗い、東京駅に向かった。なぜ、奈良か、自分でもよく分らない。遠くであればどこでもよかった。

 大和三山が見渡せる甘橿(あまかし)の丘に登り、明日香風に吹かれながら、三十にはなるまいと誓ったのである。夕暮れ迫る大和盆地の光景が心に沁みた。

 だが、無情にも三十はやって来た。

 四十歳になったときには、

「ちぇッ、四十か……」

 三十も四十もたいして変わらない、と思った。だが、どうしたことか、四十の中間地点を折り返そうという年になって、俄然、年齢が気になりだした。

 「人生五十」という言葉が私のなかで引っかかっている。唐突に旅に出る無謀な身軽さは、もうない。

 私が幼かった頃は、まだ人生五十が通用していた。還暦といえば、赤い頭巾に赤いちゃんちゃんこを着せられ、息子、娘や孫たちが集まってお祝いが行われていた。座布団に座ってこじんまり写真に収まっている年寄りが、六十歳であった。それが今では、サラリーマンの定年を六十五歳にしなければならなくなっている。

 最近、テレビや新聞を見ていて、活躍している人の年齢が気になる。IT産業花盛りとあって、三十代、四十代の若い社長をよく目にする。また、国会議員や大学教授、名執刀医などと言われる人の中にも、同世代が多くなってきた。努力の花がほころびはじめる年齢なのだ。「勝ち組み」、「負け組み」という言葉が脳裡をよぎる。

 反面、ニュースなどで殺人や強盗などの犯罪者の年齢にも目が向く。同世代が目についてならない。四十代というのは、そういう年齢なのか。若くもなく年寄りでもない、名実ともに中年である。だが、何をしても許される“青春時代”とは明らかに違う。

 気がつくと、オリンピック選手にも、プロ野球や角界にも、私の年齢がいない。身体的運動能力の盛りは、もはや完全に過ぎた。繁殖期もあらかた終わったのだが、半面、助平な年齢でもある。痴漢がやたらと多い。その気持ちは分らないでもない。

 そんな中、大学時代の友人から目の覚めるようなメールが届いた。結婚するというのだ。彼はこの年になるまで、外資系企業の猛烈社員として、独身を貫いてきた。私の友達には珍しく、女性の気配をまるで感じさせぬ真面目な友人であった。

 その見慣れぬ英文のメールに一瞬、ウィールス・メールかと構えたほど(それほど私の英語力は落ちている)。彼は私へのメールと同時に、社内にも一斉送信をしたとみえ、結婚の真偽をただす私の問いに、

「現在、社内……パニック!」

 と返って来た。

「――相手は三十八歳の女性です」

 という返信を見て、内心ホッとした。三十八歳の《男性》ということも考えられないこともない。その気のある男ではないが、一瞬そんなことが頭をよぎった。

 おりしも桜の咲き初む季節。花を眺めながら、今年もまた春が来たかと年寄り臭く思った。

「Hクン……遅くても春は、春だ」と激励の祝電を送ってやった。


                   平成十七年六月 芒種  小 山 次 男