Coffee Break Essay



  『想い出の残香』




 二十八歳を目前に会社の独身寮を追い出された。

 住んだアパートは下河荘。その一年半後、結婚してみね荘に転居した。下河荘は、下河さんという七十代後半の老爺(ろうや)が大家で、みね荘も梅田ミネさんという古びた婆さんが家主であった。

 これは、昭和の終わり頃から平成にかけての話で、当時としても○○荘なるネーミングは、一時代前のアパートといった印象があり、恐ろしく冴えない名前であった。だが、賃料との兼ね合いもあり、そういう古ぼけたアパートにしか住めなかった。

 下河荘は、三ヶ月もかけて都内をさんざん物色し、その家賃の高さに嫌気がさし、頭にきた弾みで決めたアパートだった。時はバブル真っ盛り。小奇麗なワンルームマンションまがいの部屋を探していたのだが、入居できそうなところは一軒もなかった。杉並で二万二千円は破格の家賃だった。ただし、四畳半、風呂なし、共同便所という代償がついた。

 アパートの下見の日、家主である下河氏が契約書持参でわざわざ目黒から来て、あり得ない話だが、その場で契約を交わしてしまった。おりしも焼芋屋がアパートの前を通りかかり、宜しくお願いします、と私は下河氏に焼芋をご馳走した。そのせいか知らぬが、下河氏とはすっかり意気投合し、不動産屋への仲介手数料は払わずに済んだ。ひどくいい加減な契約である。

 さて、入居第一夜。電気ストーブのスイッチを入れた途端、いきなりブレーカーから火花が飛び散り、それなり電気が消えた。電気に疎い私は、何が起こったのか皆目わからない。焦げ臭い闇の中、爆発するのかと身構えた。しばらく様子を窺った後、初めての街を探しまわったあげく、やっとの思いで電気屋を見つけた。事情を説明し、ヒューズと懐中電灯を購入し、悪戦苦闘の末、復旧させた。十一月の寒い夜であった。

 下河荘は、アパートといっても古い一軒家を改造したものであった。共同生活に近い住まいである。一階には大学生の兄弟が二人、二階には私のほかに、築地市場でアルバイトしながら脚本の勉強をしている若者と、週末に原宿の歩行者天国に繰り出す二人のロックミュージシャンがいた。ホコテンに行けない雨の日曜日は、そのミュージシャンが奏でるエレキギターの大音響に、アパートが揺れた。

 四畳半の部屋には、畳半分の広さの台所があった。さらにその半分のスペースに小さなガスコンロと流しがあった。頭上には昔ながらの裸電球がぶら下がる。近くには神田川が流れており、ふた昔も前のフォークソング全盛期を髣髴(ほうふつ)とさせる生活であった。それが妙に嬉しかった。

 手が割れるほどの冷たい水で、三合の米を研ぐ。漱(すす)ぐほどに透明感を増してゆく研ぎ汁の中で、裸電球に照らされた米が輝く。真っ赤になった手で米粒を掬(すく)って眺めながら、ひとり暮らしの開放感に浸っていた。

 生活は、極力、簡素を心がけた。

 洗顔用タオルは時として布巾にもなった。茶碗も買わず、酒屋からもらった皿にご飯とおかずを一緒に盛った。何度も洗って使っていた割り箸は、角が取れて丸くなった。食器はこの皿一枚と割り箸一膳、それとワンカップ大関の空き瓶のコップ。半ばヤケクソともとれる生活だった。

 だが、掃除は毎晩(数分にして終わるのだが)、ワイシャツもコインランドリーで洗濯し、自分でアイロンがけをしていた。学生街だったので、至近距離に風呂屋が三軒もあった。銭湯へは毎日かよった。夜十時代の銭湯は二十代前後の若者でごった返す。帰りが遅くなり、背広のまま銭湯に駆け込んだこともしばしばだった。

 そんな私も、気が向けば、思いついたように関西方面へフラリと出かける。京都の仁和寺の石段に佇んでみたり、ある時は明日香村の甘橿(あまかし)の丘にいたこともある。

 もし、私がメゾン○○やカーサ××にでも入っていたら、こんな充実した生活を味わうことなど叶わなかったに違いない。まさに、青春の再体験であった。ただ、久々のひとり暮らし、しかもこの年の正月は、年末の忙しさにかまけて飛行機のチケットを取りそびれ、故郷への帰省を逸してしまった。元旦から銭湯が休みに入り、三が日をコインシャワーで過ごすはめになった。これには堪(こた)えた。寒さが身に染む、侘しい正月となった。

「――いいから、だまって座ってな」

 何か手伝わねばと思うその人を制し、私はガスコンロの前に立っていた。梅が咲き初む季節、下河荘に初めての客を迎えた。私は最大級のもてなしをするために腕を振るった(いや、振るったのはフライパンの方だった)。

 初め、怯えるように恐る恐る部屋に入って来たその人は、私の部屋の何もかもが物珍しいらしく、あちらこちら眺め回し、ときおり感嘆の声を発していた。

「ちょっと寒いけど窓、開けるよ」と言って、私は台所の小窓を開けた。

「へーッ! 換気扇もないンだ。凄いねぇ、ここ」と、ますます嬉しそう。

「ねぇ、食器はどこ?」

 何もしないで座っているのが落ち着かないらしい。私が指差したその先を見て、その人は大仰にのけ反った。小さな冷蔵庫の扉を開けると、上段には食器、下には読みかけの本が入っていた。

 どこか感じのいいレストランでの食事を期待していたであろうその人は、「大丈夫、オレが作るから」という思いもかけぬ私の提案に、半ば呆気にとられたまま、訳も分からずついて来たのだ。

 お待たせ、と目の前に出された例の皿には、潰れた目玉焼きと卵焼きにソーセージ。その人は、目を瞠(みは)り、次に笑い転げた。「黄色づくしだけど」と追い討ちをかけるように、冷蔵庫から出されたタクアン。

 皿が一枚しかなかったので、私の分はまな板に載せ、その人には新しい割り箸を出した。テーブル代わりに使っていた小さなアイロン台に新聞を敷いたささやかなランチである。常識を覆すことが次々と起こる。当時十九歳だったその人にとって、下河荘が鮮烈な印象として焼きついた。それが私たちの初めてのデートであった。

 それほど時を経ずして、下河荘に新しい茶碗と皿、そして箸が揃った。沈丁花が香る路地を、新しい風呂道具を手に肩を並べて歩く二人の姿があった。やがて下河荘とさほど距離のないところに新居を定め、その人は妻となった。それがみね荘である。

 その年齢の女性、しかも初めてのデートならば、もっと気の利いた場面設定にしてやればよかった、と後になってひどく悔やんだ。

 みね荘での生活は一年半で終わった。老朽化による取り壊しのため、練馬の社宅へ転居。

 それから数年後、かつての住居を訪れる機会があった。下河荘は「ファミーユ下河」と名前を変え、モダンなワンルームアパートになっていた。みね荘の方も庶民には手が出ないような高級マンションに様変わり。梅田さんの名を採ったのであろう「ザ・プラム」というプレートが出ていた。

 さらに年を経、「ファミーユ下河」は、全く違う訳のわらぬ名前に変わった。下河氏が手放したか、他界されたのだろう。寒々としたカビ臭い畳の部屋で、下河氏と食べた熱い焼芋が浮かんだ。モダンなアパートを眺めながら、想い出の残香が潰(つい)えてゆくような寂しさが胸に迫った。

 この(平成十六年)三月、十二年ぶりの転居となった。こちらもまた、老朽化による取り壊しである。近隣に新居を見つけた。これまた古ぼけた一軒屋である。

 引越しが一段落したころ、窓辺に園芸店で見つけたひと株の沈丁花を植えた。その夜、中学三年になる娘が塾に行くのを見計らって、二人で密やかに近所の銭湯へ出かけたのである。

                                     平成十六年九月秋分 小 山 次 男