Coffee Break Essay



  『母への贈り物』




 北海道の南、日高山脈が太平洋になだれ込む先端に、襟裳岬がある。森進一の『襟裳岬』で一躍全国区に躍り出た。そのえりも町の隣に人口六千にも満たない小さな町、様似がある。そこが私の故郷だ。

 東京から九時間もかかるその小さな町で、母がひとり暮らしとなって、今年で二十二年になる。それは、私が東京で生活し始めた年数にそのまま重なる。就職して三ヵ月目に、父が亡くなった。様似は母の生まれ育った町でもある。

 昨年、母が三十数年勤めた小さな会社が解散となった。失職した母は、「もらえるものは、もらっとかなきゃね」と言って、やっと年金生活を始めた。だが、それも長続きはしなかった。元来じっとしていられない性質である。

「カアさん、ぶらぶらしてんだったら、アルバイトでもしねぇが」

 と誘われ、アポイ山麓にある町営の施設で週に数回、登山者の世話をしている。アポイ岳は、日高山脈の最南端の山で、高山植物でその名を知られている。

 あるとき母は、アポイの愛好会が発行する会報に、アポイに関する一文を頼まれた。私の自宅に届いた荷物のなかに、その会報が入っていた。

 次のような内容である。

 あるとき、母の会社に社用で来たお客さんとアポイ登山をすることになった。下山途中、母は足首を捻り骨折。その骨折が治るまでの間を、般若心経を憶えることに充てた。毎朝自宅の窓から見えるアポイに向かって手をあわせるのが日課となり、アポイが祈りの山になったというもの。

 題材がよかったので、どこかに応募してみてはと向けると、そんな面倒くさいことは嫌だという。話はそれっ切りになった。

 実はその時、私には密かなたくらみが浮かんでいた。この文章を手直しし、どこかに応募してみようというものだった。

 それから文章との格闘が始まった。夕食後、食卓テーブルの上にパソコンを持ち出し、向き合うこと一ヶ月。原稿用紙でたった五枚足らずの文章に、精一杯の推敲を加えた。話を大きく膨らませた結果、タイトルにまで手を加えた。

 原稿を書く傍ら、公募雑誌でエッセイの募集を物色する。東京の出版社が主催する文学賞が目に留まった。毎月、月間優秀賞を選出し、一年の終わりにその中から大賞を選ぶというものだった。さっそく、母の名前で応募した。

 それから一ヶ月半ほど経ったある日、仕事中の私の携帯が鳴った。母からだった。普段、よほどのことがない限り仕事中に電話をかけてくることはない。ひどく興奮する母の声が飛び込んできた。

「ポストに入ってたんだわ。あんたどうしたの。出版社からなんだわ。最終選考がどうのこうのって」

 携帯を耳に当てていられないほどの大音声で一方的にまくし立て、電話はボツンと切れた。その通知をFAXするようにと言うのが精一杯だった。数分後、実家近くの土建屋から会社にFAXが届いた。

 それは選考結果の通知だった。

 入賞こそ逃したものの、いい線まで行っていた。その月の応募総数が一、五〇〇点あまりで、二次選考を経た十七点で最終選考が行われたとある。母のエッセイが「次点作品」(優秀賞の次に得票数の多かった作品)に選ばれていた。そして次のようなくだりがあった。

……弊社の編集部、企画部、出版審査課で、定例の作品評価会議を行った結果、今回の作品の世界をさらに広げ、ご自身の感性を磨き上げていくことにより、商業流通可能な作品をご執筆頂けるだろうとの意見で一致いたしました……」

 さらに、「作品評」なるものが同封されており、美辞麗句のオンパレード。嬉しい反面、私には、腑に落ちないものがあった。あの文章、そんなに凄いものじゃないぞ、という疑念である。その文面から、私は商業的な臭いを嗅ぎ取っていた。

 帰宅後、さっそく実家に電話すると、母の興奮はまだ収まっていなかった。母の話ぶりでは、その後多くの人に、通知文章を見せて回ったようである。

「これって、カアさん、大変なことだべさ。作家っつうことだべェ」

 土建屋の社長が目を丸くしたという。

「――これじゃ、私に作家になれって言ってるみたいだね。でも、なんだかお金がかかるみたいなこと書いてあるよ」

 同封書類の中に、パンフレットがたくさん入っているという。作家養成カリキュラムの案内だった。

「――そんなによかったかな、あの文章。でも私が書いた題名と少し違うみたいだけど、あんた直したのかい。いやー困ったぁ。どうするべ……」

 血圧が上昇し、倒れるのではないかと思うほどの興奮である。これで入賞でもしていたら、間違いなくは母“即死”だった。私は電話口でホッと胸を撫で下ろした。

 その後、母の不在の間に、出版社からの電話が何度かあったようだ。着信履歴と通知文書の電話番号が一致していたという。出版社からの連絡は、それっ切りになった。

 母は、選考結果の文章を持ち歩いて、方々に見せて歩いているようだ。私の目論見どおりにことが運んだので、内心胸を撫で下ろした。

 妻がここ数年、長患いをしている。実家にはもう何年も顔を出していない。父の法事にも行けなかった。そんな中、母が七十歳を迎えた。照れくさいので母には言っていないが、私からの誕生日プレゼントのつもりだった。


                  平成十七年七月 小暑   小 山 次 男