Coffee Break Essay



 『お買い得』




 今年何度目かの木枯らしが吹いた。暖冬とはいえ十二月の声を聞くと寒さが身にしみる。そろそろ行くか、やっとのことで重い腰を上げた。

 会社帰りに向かった先は、紳士服の大手量販店。背広の内ポケットには、その店から届いた「スーツ半額券」つきのダイレクトメールが入っていた。

 結婚してしばらくは、近所のテーラーでスーツを作っていたのだが。行けば買わねばならぬような気になり、それが億劫で足が遠のいてしまった。

 私は衣服の買物が苦手なのである。原因は、店員の応対にある。店に入るや否や、「何かお探しですか」と笑顔で近づいてくるバカな店員がいるためだ。どこまでもついて来て、色がどうの、お客様ですとこちらのサイズですねとか、ちょっと手にしただけなのに、これは今年の流行で……など、煩わしくてたまったものじゃない。そういう店員に出くわすと、容赦なくプイと店を出ることにしている。

 だが、今回は、是が非でもスーツを買わねばならぬ状況に自分を追い込んでいた。秋口に、もっていた冬物スーツをバッサリと処分したのだ。そうすれば、嫌でも買物に行くだろうと。それが暖冬とも相俟って、とうとう十二月を迎えてしまった。

 派手なダイレクトメールのわりに、店内は拍子抜けするほど閑散としていた。あいにく店員は遠くの方で忙しそうにしている。世間が不況だから客がいないのか、景気がいいからこんな店に来ないのか、そんなことを考えながら、広い売り場を二巡もしていた。どうしてこうも同じようなものばかり置いてあるのだ。しかも、いいなと思うものに限って高い。

(だが、こちらには半額券があるのだ)

 背広の袖口にぶら下がっている値札を見て溜息をついていたとき、店員の声が降ってきた。

「お客様、サイズはおわかりですか」

 遠くにいたはずの若い男の店員だった。

「いや……、わかりません」

 不意のことに、思いのほか素直に答えてしまった。ここ数年スーツを買っていなかったので、自分のサイズを忘れていた。店員は私のサイズの売り場に私を連れて行くと、また去って行った。

 いつもなら、ほとんど迷わずにサッと決めてしまうのだが、今回は迷った。あまり気に入ったものがないのだ。さて困ったなと思案していると、例の店員がどこからかスーツを持って来た。

「こんなのもあります」と、さりげなく目の前の陳列棚にそのスーツをかけた。

(おお、なかなかいいのを持ってくるじゃないか)

 勧められるままにそのスーツに袖を通しながら、さりげなく値札を見ると、八万五千円とある。私は黙ってその背広を脱いだ。

(何を考えていやがる、この若造は……。だが、こちらには半額券がある)

 背広のポケットからダイレクトメールを出して、

「これ、使えるんだよね」と店員に確認すると、

「お客様、今なら二着買うと、二着目が千円になります。その割引券ですと、一着のみ半額なんです」

 よく分からないことを言う。一着を半額で買うのが徳なのか、二着目が千円になるのがいいのか、一瞬判断がつかなくなった。そこで苦し紛れに、

「なんだいそれは。何としても二着買わせようっていう魂胆かい。そんなことしないで最初ッから全部半額にすればいいじゃない」

 と向けると、苦笑いを浮かべた店員が

「はい、そうなんですけどねェ」

 決まり悪そうな顔をした。言葉の端に東北訛りを感じた。そこで、

「東京に出てきて何年になる」と訊ねると、若者が不意をつかれたような驚きの顔で、

「四年です」と素直に答えた。それはもう店員の顔ではなく、純情そうな田舎の若者の表情だった。ねちっとした語尾の「ねェ」に聞き覚えがあったので、当てずっぽに、

「秋田だろう」と言ってみると、目を丸くして「角館です」と返ってきた。

「お客さんも秋田ですか」と今度は完璧な秋田弁である。

「北海道だけど、爺さんまでが秋田だ……」

 そこで店員と私の距離が、グーンと縮まった。

 結局、迷いに迷った末、私は店員の言うままにスーツを二着買った。

「ワイシャツもお買い得になっています」と言われるままに三着買って、さらにネクタイと靴下まで。それは秋田ヤローが、私の耳元でお買い得を連呼したためだった。レジで言われた額にギョッとしながら、精算が終わるまでの間、私は本当に得をしたのか、と考えていた。

 店の出口まで見送りに来て、深々と頭を下げる秋田に、「頑張れよ」と激励の声をかけて店を後にした。

 寒い夜道を歩きながら、

「(割引券を使うと)一着だけが半額。(割引券を使わずに)二着買うと二着目が千円。でも、二着欲しい」を口の中で反芻しながら歩いていた。何度かそれを呪文のように唱えていたとき、やられた! と気がついた。店の戦略にまんまと引っかかったのだ。

 店は半額券をエサに私をおびき出し、スーツを二着買わせ、しかも二着目が千円だと安心させておいて、付属品まで買わせたのである。途中でその作戦に薄々気づいたのだが、秋田弁に気を許してしまったのだ。

 騙されたのか、徳をしたのかよく分からない買物となった。だが、この勝負、どう考えても店の方に軍配が上がっている。何年東京にいても、私の中の“田舎者”は抜けないのである。

                  平成十七年三月 啓蟄  小 山 次 男