Coffee Break Essay




 
「尿閉」


 それはなんの前触れもなく、突然、始まった。

 この八月、会社の会合の二次会でトイレに立ったときのこと。小便をしようと構えたとたん、アソコに嫌な痛みを覚えた。そして、尿にいつものような勢いがないのを感じた。金曜日の夜だった。それが休日を挟んでみるみる悪化。月曜の朝、やむなく会社を抜け出し、泌尿器科を受診した。

 十年ほど前に尿道炎を患ったことがあり、そのときの痛みに酷似していた。だが、尿検査の結果、細菌が見当たらないという。つまり、尿道炎や膀胱炎ではないというのだ。

「何か心当たりはないですかね」

 という中年の医者の口角が少し上がったのを見逃さなかった。キッパリと否定はしたのだが、

「念のため調べてみましょうね」

 ということで採血をし、一週間後の外来を促された。

 会社に戻って同僚にその話をすると、

「それは石ですよ、石。肛門から尿道にかけてモゾモゾするんでしょ、もう間違いない。ビールをガンガン飲んで一気に出さないとダメですよ」と。

 私もうっかりしていて頭が回らなかったが、細菌がなければ医者が次に疑うのは「石」だろう。それが常識というものだ。レントゲンやエコー検査をすると、たちどころに判明するはず。それもしないでいきなり性病を疑い、一週間後に出直して来いという。とんでもない医師の判断に、強い憤(いきどお)りを覚えた。

 そんな私に、同僚による「石」の出し方の実演が始まった。アソコの根本をギュッと押え、膀胱に満身の力を込め一気に放尿する、そのやり方を顔を真っ赤にしながら熱演してみせた。彼は、尿管結石のスペシャリストである。つい最近も石を砕いてきたばかりだった。

 石に違いないと確信した私は、さっそくその夜、飲み友達のリエちゃんを誘って近所の居酒屋へ繰り出した。自営業のリエちゃんは、疲れたとか、明日早いからと渋るのが常なのだが、「ちょこっとだけならいいわよ」と面白がってつきあってくれた。

 いつもはビールを一杯だけ飲み、次に焼酎に切り替えるのだが、この日は同僚の熱い教示もあり、無理してビールを飲み続けた。しかもかなりのハイペースで。何度かトイレに行ったのだが、嫌な痛みが強まるばかりで、同僚の言うような排尿は不可能だった。不安になってきた私は「そろそろ帰ろうか」とリエちゃんを促すと、「ちょこっとだけ」のリエちゃんに勢いがついていた。そして、居酒屋の隣にある場末のスナックに「ちょこっとだけ」ということになった。

 そこで小一時間も過ごしただろうか、とうとう小便が出なくなって、私はリエちゃんを置き去りにして帰った。リエちゃんと飲むと、いつもこのパターンになる。

 私のマンションは、スナックから歩いて三十秒ほど。自宅に帰って落ち着いてトイレに向かえば、出ると思った。だが、どう足掻(あが)いても小便が出ない。膀胱は膨れ上がるばかり。そのとき私の膀胱は、ヒキガエルの喉のように膨らんでいたはずだ。石がアソコの根元でラムネ状態になって詰まっていると思った。

 必死に消火活動をしようとするが、消防士が抱えるノズルの先からは、一滴も水が出ない、そんな状況が続いた。やがて脂汗が出てきて、下半身が震えてきた。これ以上我慢していたら膀胱が破裂すると判断し、やむなく一一九番に電話した。

 最低限の身支度をし、マンションの玄関に蹲(うずくま)る。祈るような気持ちで救急車を待った。小便が逆流し、口からあふれ出るという妄想に取りつかれていた。やがて遠くで他人事のように鳴る小さなサイレンを耳にした。そのかすかな響きが一直線に近づいてきた。

 私が搬送された病院は、午前中に外来で訪ねた病院だった。救急玄関の入口で待ち構えていたストレッチャーに移し替えられ、処置室に運ばれた。薄暗い廊下をいくつも曲がる。そのめまぐるしく変化する天井をじっと見つめていた。気づくと私の傍らにピタリと寄り添う若い看護師の後姿があった。ズボンとパンツがあっという間に剥ぎ取られ、その看護師が私のアソコを握りしめている。釣ったばかりの暴れる魚をしっかりと握りしめ、もう一方の手で喉に引っかかっている釣り針を引き抜こうとする釣り人の構図だった。

「何をするんだ、オマエは!」と叫びたくなるような激痛が下腹部に走った。アソコの先っちょから管を通そうとしているのだ。目の前にあった看護師の尻を思わず鷲づかみにしそうになった。激痛で何度か上半身が跳ね起きた。そのたびに、

「はい、口を開けて力を抜いて」

 看護師の声が聞こえる。どこの口を開けろというんだ、力なんか抜けるわけないだろうと思いつつ、私は看護師の二の腕にすがるようにしがみついていた。やがてその作業を医師に替わったのだろうか、看護師が私に向き直りしっかりと手を握った。その安堵感からか、管が膀胱に達した。ほどなく膀胱が、何事もなかったように楽になっていった。管を伝って小便が出たのだ。管につながれた小便袋を見ると、今までに見たことのないほどの量の小便が出ていた。

「このまま入院になりますからね、いいですかコンドーさん」

 と言われたが、いいも悪いも下半身丸出しの男に、その選択肢はなかった。病室に運び込まれ時計を見ると、午前一時を回っていた。日付が変わり八月二十五日になっていた。

 アソコが管でつながっていると、寝返りのたびに目が覚める。角度によって痛いのだ。まんじりともしない朝を迎え、明らかに二日酔いの顔でレントゲンやエコー検査を受けた。その結果が告げられたのが、翌二十六日朝の医師の回診だった。私はまるまる一日、投げられたのだ。急げば数十分で出る結果を翌朝に聞いたのである。結局、石は見つからなかった。

 二十五日の朝、妹に頼んで最低限の入院用具を持ってきてもらった。その中には、この七月に発表された芥川賞二作の載った『文藝春秋』と直木賞の単行本もあった。お蔭で、絶望的に暇な入院生活を、読書で満たすことができた。リエちゃんとスナックのママにも病室からメールを送った。二人とも目玉が飛び出していた。

 翌二十七日、下半身に麻酔をかけて内視鏡検査を受けたのだが、とうとう石は見つからなかった。内視鏡検査はオペ扱いだったので、二十六日の昼から絶食をし、二十七日には浣腸までかけられ、全裸になってストレッチャーで手術室に運ばれた。検査は三十分たらずで終わったのだが、二十八日の朝までベッドから起き上がることを許されなかった。その間、オムツをつけられ、再びアソコに管を通されていた。

 二十八日に予定されていた年に一度の人間ドックは、やむなく延期した。二十九日は、かねてから娘のいる長野県安曇野市へ二泊で行く予定で、早々と航空機のチケットを手配していた。医者から飛行機の時間を尋ねられ、午後からだと告げたら、では二十九日の朝の退院でだいじょうぶですねと、とんでもないことを言ってきた。忍耐の限界を感じた私は、二十八日の午後に強引に退院させてもらい、旅行を決行したのである。結局、四泊四日の入院の結果、診断書には「尿閉(にょうへい)」と記されただけだった。

 帰ってきてからネットで検索し、泌尿器科医のサイトから「非細菌性慢性前立腺炎」に目星をつけ、その症状の記載をプリントアウトし、別の病院を受診した。そこでやっと確定診断を受けたのである。

 この病気、三十代から四十代にかけて多く、長時間のデスクワーク(私の場合、これに当たる)などが主因となって発症し、病院を転々として初めてわかるケースが多いとあった。前立腺に関しては、まだまだわからない部分があり、完治には時間がかかる、と。入院していた病院でも三人の医師がカルテを見ていた。釈然としない思いで、現在も投薬治療を続けている。

 さて、ビールで「石」を出す件だが、酔っぱらって運ばれた言い訳をした医師や看護師からは、一様にあきれた顔をされた。看護師の顔には「そんなバカなことは、やってはいけません」と、医師の顔には「それはバカのやることだ」と書いてあった。

 当社のスペシャリストは、これまでに何度もビールで石を排出してきている。だがそれは、スペシャリストゆえに可能な特技だったのかも知れない。

   
                 平成二十七年十月  小 山 次 男