Coffee Break Essay



  『ニューヨーク坊主』




 東京の台所、築地市場の一角に築地本願寺がある。

 東京に来て間もないころ、本願寺の前を車で通りかかり「さすがは東京だな、インドの寺院もあるんだ」と感心した。実はその少し前、青山通りの銀杏並木の奥にチラリと近代絵画館が見えた。「あッ、国会議事堂だッ!」と声を出していた。手に負えない田舎者である。

 その後、築地本願寺が浄土真宗のお寺であることを知って、さらに驚いた。総本山は、京都の西本願寺である。私は、札幌のカトリック系の男子校を卒業し、進学した先が龍谷大学である。龍谷大学は西本願寺直系の学校であり、キャンパスはお寺の敷地内にあった(もっとも私の学部は、伏見区であったが)。つまり、築地本願寺は身内のお寺だった。

 身内といっても私の実家は、曹洞宗である。父が死んで始めてそれを再確認した程度で、それまでは母方の天台宗のお寺とのかかわりが多かった。一方、妻の方は、数代前からのクリスチャンであり、娘は現在、真言宗系の女子高に通っている。メチャクチャな宗教感である。

 その築地本願寺で年に一度、大学の校友会(同窓会)が行われており、二、三度出席したことがある。築地本願寺とはそれっきりになっていたが、このたび十五年ぶりに訪ねる機会を得た。

 京都に西本願寺があり東京に築地本願寺があるように、ニューヨークにもニューヨーク本願寺がある。あちらでは「ニューヨーク・ブディスト・チャーチ」と呼ばれている。ごく最近、その存在を知った。

 大学を卒業し二十三年になる今でも、毎年校友会新聞が送られてくる。その新聞に「九・一一マンハッタンで」という記事があった。「グランド・ゼロでの初盆セレモニー(二〇〇二)」という写真に目が留まった。「初盆」と「ニューヨーク」のミスマッチに興味を覚えたのだ。写真には頭を青々と剃り、立派な法衣をまとった僧侶がアメリカ人に囲まれて写っていた。この僧侶、ニューヨーク本願寺住職中垣顕實とあり、文章も師によるものだった。その経歴を読んで飛び上がった。大学時代、ESSで部活を共にした友人だった。改名していたことと剃髪だったので、まったく気づかなかったのだ。

 早速、大学に問い合わせ、中垣に手紙を出した。一週間後、地球の裏から返信のeメールが来た。一ヵ月後に講演旅行で日本に行くが、会えないか、とあった。

 再会当日。私は築地本願寺の会場で、中垣を待っていた。数名の僧侶とともに、ひときわ精彩を放つ僧侶が現れた。内面の自信が、堂々とした風格となって滲み出ていた。それはもう私の知る中垣ではなく、「師」と敬われる存在であった。

 私は思わず席を立って中垣のもとに駆け寄った。

「おお、中垣やないか、久しぶりやな。みごとな坊主やないか、アッ、ハッハー。元気にしとったか」と剃り上げた頭を撫で、肩を抱いて握手を交わしたかった。

 やや緊張した表情で現れた中垣は、目の前に現れた私を「誰だ?」という面持ちで凝視した。ひと呼吸おいて、

「わぁー、面影ぇあるわ、むかしとかわらへんやないか、自分」

 と相好を崩した。その声は中垣だった。二十三年ぶりの再会である。握手を交わしながら、私は中垣の手の大きさに感心していた。こんなに大柄な男だっただろうかと。

 学生時代の中垣は、シシャモのように痩身だった。しかも女子高生のような長髪の髪を真ん中から分け、色のついたメガネをかけていた。売れないシンガー・ソング・ライターの風貌だった。だが、ふざけた学生生活をしていた我々とは違い、中垣は真面目だった。人前にしゃしゃり出て来るようなタイプではなく、我々のバカ騒ぎを静かに楽しんでいるような、控え目な存在だった。

「おい、中垣、どっちがええねん、はっきりせぇや」

「自分らがそれでええいうねんから、俺もそれでええと思うわ」

 しっかりしているのか、腑抜けなのかよくわからなかった。

 ところがあるとき、

「ボクは開教使になってアメリカへ行こうと思うてんねんけど、自分も一緒にアメリカ、行かへんか」

 留学したいと口にした私を、真面目な顔で誘うのだ。開教使がいかなるものか、全く知らない私は、当時、京都に大勢いたモルモン教の布教者のようなものだろうと勝手に想像し、俺には無理だと断った。だが、その後しばらく、そんな手法もあるのかと、中垣の誘いが気になっていた。ESSを経験すると、誰もが留学に憧れるのである。

 卒業後ほどなく中垣は結婚し、渡米した。

「あの中垣が、どないして口説いやんやろな」というのが大方の見方で、「中垣もやる時はやるもんやな」と、早かった結婚に、大いに感心したのである。相手は、二学年下の後輩で、小柄で愛らしい女の子だった。

 その中垣が、国連本部での法要に参加したり、ニューヨーク仏教連盟会長という要職を経験していた。セントラルパークでは、毎年、盆踊りを主催し、ホワイト・ハウスに招かれたこともあるという。

 そんな中垣の変貌ぶりを、是非ともこの目で確かめたい。方々に散らばっている昔の仲間を代表し、会わなければならないという、変な使命感が沸き起こったのである。

 だが当日まで、築地本願寺へ行くことをひどく躊躇っていた。中垣の法話が「英語法話」とあったのだ。卒業以来、私はまったく英語に接していない。つまり、英語がわからなくなっていた。はたして一時間の法話に耐えられるか。寝てしまったらどうしよう。参加者もそう多くないはず。アメリカ人ばかりだったら……。不安は増すばかり。

 当時の仲間で、唯一東京にいるHに声をかけた。Hは外資系の会社で日常的に英語を使っている。その頼みの綱が、当日は仕事があって抜けられないという。仕方なく腹をくくって出かけたのである。

 法話の参加者は四十名ほどで、欧米人が四名だけだった。

 司会の坊さんが出てきて、いきなり英語で始まった。最初の三十分は教会のミサの仏教版のようなことをやった。出席者全員で賛美歌まがいの歌を二曲歌い、お経を唱えた。白人女性が大きな声で「ナーモアミダブ、ナーモアミダーブ」とやっている。摩訶不思議な光景だった。お経だけが日本語である(はたして、お経は日本語か)。どちらにしても意味はわからない。

 演台に立った中垣が、手にした紙袋の中からマッキントッシュの真っ白いノートパソコンを取り出した。ニューヨークでの活動をスライド・ショーにしての法話だった。

 中垣の英語は恐ろしく滑らかで、長崎、広島の原爆と同時多発テロの話題から始まった。「ナーガサキ」、「ヒローシマ」、「グランド・ゼロ」という言葉を小耳に挟んだのだ。居眠りの懸念は払拭されていた。みんなが笑うところで、私ひとりムッツリとしているわけにもいかない。英検のヒアリング試験に臨む中学生のような心境で耳を傾けた。周りがドッと笑ったところで、私も衛星中継よろしくワンテンポ遅れてニッコリ。時折目が合う中垣が、意気に感じて話を振ってくるのではないかと、臨戦態勢をとっていた。

 法話終了後、二人で久闊を叙すつもりでいたが、十五名ほどで近所の華料理屋に繰り出した。ほとんどが僧侶である中、二人の白人女性がいた。ひどく疲れた。

 最初はみんな日本語で話していたのだが、気づくと英語が入り混じり、しまいには全部英語になった。私は中垣の隣に座っていたのだが、中垣を中心に会話が行われるため、落ち着いて話もできない。

 中垣の右隣には、お人形さんのような若い白人女性がいた。ニューヨークで中垣から書道を習っていたという。その女性が時折、私にも微笑んでくる。話しかけられてはかなわない、と私はまたもや中学生男子のようにビクビクしていた。

 一緒に食事をした中に、法衣を纏って法話の世話係りをしていた日本人女性がいた。お寺には不釣合いな精彩を放つ人だった。乾杯の後の自己紹介の中で、近くにいた坊さんが、

「あッ、この人、飛行機の中で坊さんにナンパされたの。元国際線のスチュワーデス」

 とダンナが坊さんであることをつけ加えた。

 普段、サラリーマンの世界にひたっている私にとって、面白い会食だった。坊さんだけでも興味深いのだが、尺八の先生やカメラマンまでいる。大いに飲んで語りたかったのだが、そうもいかなかった。

 坊さん主体の集まりである。酒が進まない。しかも、当然のごとく誰もタバコを吸わない。いつもの本願寺の集りと店も心得たか、テーブルに灰皿がなかった。私は、法話を含め五時間近い禁煙を強いられていた。おまけに英語である。疲労困憊であった。

 店を出るとき、どこかでお茶でも飲もうと中垣に誘われたが、時間が遅かった。私は病身の妻を抱えていたため、帰宅時間が気になった。しかも近所にはマクドナルドしかない。ニューヨークならまだしも、剃髪で作務衣姿の坊さんとマックは合わないだろうと考えた。

「自分、すっかり落ち着いた感じになったなァ……ニューヨークに来たら声かけてくれるか。ゲストルームもあるしィ」

 近所の焼肉屋にでも誘うような気安さで声をかけてくれた。二十三年前「開教使になって、アメリカへ行かへんか」と囁いた中垣に重なった。私は何も落ち着いていない。ただ、英語ができないから黙っていただけだと言おうとしたが、もう別の人が割り込んできて、それっきりになった。

 かくしてニューヨーク坊主との再会は、あえなく終わった。

 

 この正月、ニューヨークから手紙が届いた。中垣ファミリーからの手作りのグリーティングカードである。その中に、小学生の息子が描いた父親の坊主頭の後頭部の絵があった。アメリカ生まれニューヨーク育ちの息子である。絵の余白に達筆な日本語で一句あった。

「我が父よ そんな頭じゃ さむかろう」

 さすがは坊主の息子、と私は思わず膝を叩いた。そして次の瞬間、涙が溢れた。どうにもならないくらい涙が止まらなかった。

 

                 平成十八年一月 大寒  小 山 次 男