Coffee Break Essay



  『野辺の送り』




 斎藤茂吉『死にたまふ母』、宮沢賢治『永訣の朝』、高村光太郎『レモン哀歌』、題名を聞いただけで胸が締めつけられる。母、妹、妻の死を悼む詩歌である。大正初年から昭和の初めにかけて書かれたこれらの一群も、すでに古典の部類に入っている。

 五月の豊麗な自然の中に還ってゆく母のもとに駆けつける息子。十一月のみぞれの降る朝、死に行く最愛の妹を看取る兄。暗い死の床でレモンの香気に包まれて逝く妻を見守る夫。死に行く三人は偶然にも東北生まれである。

 高校三年の春、予備校主催の模擬試験を受けたときのこと。志望校を見定める大切な試験で、この茂吉の歌に出会った。

 試験は、十首ほどを読ませて解く問題だった。読み進むうち、底知れぬ感動を覚えた。それまで真剣に試験に取り組んでいたのだが、この歌にすっかり魅了され、試験がバカらしくなり、ついには国語の試験の終了と同時に、試験会場を抜け出してしまった。その後の英語と社会の試験をスッポかした私は、本屋に立ち寄り「赤光」を手にしていた。

 『死にたまふ母』は、茂吉の「赤光」に収められる五十九首の短歌群で、四部構成になっている。

  みちのくの 母のいのち一目見ん 一目みんとぞ ただいそぎける

  灯(ともし)あかき 都をいでゆく姿 かりそめの旅人と 人見るらんか

  吾妻(あづま)やまに 雪かがやけばみちのくの 我が母の国に 汽車入りにけり

 「母危篤」の急報を受けた茂吉は、取るものもとりあえず故郷の山形へ急ぐ。何年かぶりに帰る故郷、そこは母の地である。母の元に走る子の息づかいが、ひしひしと伝わってくる。

  はるばると 薬をもちて来しわれを 目守(まも)りたまへり われは子なれば

  死に近き 母に添寝(そひね)のしんしんと 遠田(とほだ)のかはづ 天に聞こゆる

  我が母よ 死にたまひゆく我が母よ 我(わ)を生まし 乳足(ちた)らひし母よ

  のど赤き 玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて 足乳根(たらちね)の母は 死にたまふなり

  ひとりきて 蚕(かふこ)のへやに立ちたれば 我が寂しさは 極まりにけり

 ひとりの人間の灯火が、いま消えようとしている。覚悟は十分にできている。できてはいるが、母は母なのである。かあさん、かあさんという茂吉の声にならない叫びが聞こえてくる。

 母の死に、親類縁者が次々と弔問に訪ねてくる。そのうち酒も入りにぎやかになる。だが、その喧騒を一歩離れると、母の死が胸に迫ってくる。

  星のゐる 夜ぞらのもとに赤赤と ははそはの母は 燃えゆきにけり

  灰のなかに 母をひろへり朝日子(あさひこ)の のぼるがなかに 母をひろへり

 自らの手で母を葬りながら、空に昇ってゆく母を弟とふたり夜通し見守る。夜が白むころ、フキの葉に骨をひろい上げ、骨壺に納めてゆく。母の死が歴然と迫ってくる。茂吉がひろうのは骨でなく、母なのである。

  ほのかなる 通草(あけび)の花の散るやまに 啼く山鳩の こえの寂しさ

  山ゆゑに 笹竹(ささたけ)の子を食ひにけり ははそはの母よ ははそはの母よ 

 葬式も一段落し、人々が帰り、静けさが戻る。生活の場を東京に移して久しい茂吉に、忘れていた故郷の光景がしみてくる。あらためて母の死を実感する。死を受け入れた後に訪れる静寂と虚脱感。どの歌にも、作者の瑞々しい息づかいが感じられる。

 現在の葬式と比べて、いかにも葬式らしい葬式ではなかろうか。ひとを葬るということは、こういうことなのだなと考え込んでしまった。

 葬儀屋が万事計らう現在の葬儀。当事者にとっては、余計な心配もいらず、だだ、葬式というセレモニーに乗っかってしまえばいいのだから気楽である。反面、人間としての大切な営みを喪失してしまっている。

 通夜・告別式を終え、葬列を組み、屍体をかついで小高い丘にのぼる。荼毘に付す。赤々と燃える炎は天を焦がし、煙が空へと立ち昇ってゆく。その頃にはあたりもとっぷりと暮れ、空には星が輝き、夏であるならば蛍が飛び交う。お骨になり拾えるようになるまでの長い時間、言葉少なにその光景を見守る。その間、人々は死者の生前のこと、人生の儚さなど様々なことに思いをめぐらす。人が人の死を受容するための大切な時間だった。星の瞬きに、蛍の明滅に、天に昇る死者の魂を視ていた。

 野坂昭如原作の映画、『火垂るの墓』の情景と重なる。戦争で両親を失った少年(野坂自身)が、幼い妹を栄養失調で亡くし、ひとり妹の野辺送りをする。妹が片時も離さず大切にしていたぬいぐるみを、妹の亡骸とともにソバ殻を敷きつめた行李に入れ、丘の上で焼く。荼毘に使う炭はほんの一抱え。その分量の少なさと、あまりにも小さな行李が胸に迫る。

 何年かぶりに茂吉を読み返して、葬式について考えてみた。

                  平成十二年八月   小 山 次 男

 追記

 平成十八年十月加筆