Coffee Break Essay

この作品は、平成228月 第6回文芸思潮エッセイ賞 奨励賞に選ばれました。
また、以下に掲載されております。


・文芸思潮臨時増刊号「エッセイ宇宙5」(2011年1月発行
・「文芸思潮」39号(2011年1月発行)


 「二艘の小舟」


「どうやら、おいら、うつ≠轤オい……」

 それまで年賀状のやりとりだけだった学生時代の友人からメールが届いた。平成十五年のことである。まもなく三人目の子供が生まれる。しばらく会社を休んでいるが、辞めることになるかも知れない、とあった。
 私は、良二からのメールを前に、天井を仰いだ。何か言葉を返そうとパソコンに向かうが、真っ白いディスプレイを見つめたまま指が動かなかった。
 四十三歳、臨月の妻と幼子二人、うつ病、失職……。絶望するなということ自体、無理がある。だが、安易に「頑張れ」とはいえない。「頑張らなければ」という気持ちが良二を押し潰しかねなかった。
 良二とは学生時代の二年間を、京都のアパートで過ごした。まわりが関西人ばかりの中、私が北海道出身で良二が東北だったという親近感から、すぐに打ち解けた。
 そのころ良二は、古美術研究会なるサークルに所属していた。
「何だか骨董屋みたいな名前だな」
 とバカにしていたのだが、あるとき良二の書いた仏教建築の研究発表を目にし、衝撃を受けた。その前書きに、「薬師寺の三重塔に足げく通ううちに、塔を見に行く自分が、いつしか塔に会いに行く自分に変わっていた」と書き出されていた。行間から溢れるその瑞々しい感性と、卓越した筆力に圧倒されたのだ。
 良二には、何を仕出かすか分らない一面があった。私がいないことを知りながら、北海道の私の実家を訪ね、
「今、お前の家で飲んでるんだ」
 と電話をよこしたこともある。酔ってひどい怪我をしてアパートに帰って来たこともあったし、家賃の滞納も並外れてひどかった。良二は、一見、自由気ままに生きているようだったが、その生き方がどことなく危うい、生き難い人生と不器用に向き合っている印象があった。
 二回生の終わり、良二がアパートを引き払った。お寺に寄宿しながら、修行僧まがいの生活を始めたのだ。以来、良二との音信は途絶えた。
 東京の会社に就職して五年目、私は偶然にも良二との再開を果たした。東京の生活にも慣れ、学生時代を懐かしむ余裕が出てきたころ、良二のことが気になりだした。岩手の実家の住所をうろ覚えに記憶していた私は、NTTの番号案内に請(こ)い、四十軒ほどあるという同姓の中から、無作為に三軒の電話番号を教えてもらった。その最初の一軒目が、偶然にも良二の親類だった。
 良二は、大学在学中に母親を亡くし、その後、事業に失敗した父親と義絶状態になっていた。今は結婚して千葉県におり、妻の姓を名乗っているという。電話口に出た年配の女性が、言葉を選ぶような口調で、良二の消息を教えてくれた。学生時代の良二の家賃の滞納やお寺での寄宿生活は、父親の事業の失敗や母親の病死に関係していたのだろう。
 昭和六十三年、私は良二と卒業以来五年ぶりの再会を果たした。良二はすっかり垢抜けた東京のビジネスマンになっていた。そのとき私は、結婚前の妻を伴っており、翌年の私の結婚披露宴には、良二夫婦も招待した。
 その後、お互いに忙しかったこともあり、年賀状のやりとりだけになっていた。そんな良二から病気を告げるメールが届いたのだ。昭和六十三年の再会から、十四年が経っていた。

 その後、良二は私の提案を受け入れ、精神科を訪ねた。その報告のメールの最後に、

「ああ、とうとうおいらも、精神病者だ……」
 と嘆息まじりの呟(つぶや)きがあった。良二の気持ちが私の胸に突き刺さり、パソコンのディスプレイが涙で歪んだ。実はその時、私も良二と同じ苦悩を抱えていた。
 平成九年十二月、気分の落ち込みを訴え、身動きのとれなくなった妻を伴って、私は精神科を訪ねていた。
 その日を境に、私の生活が一変した。料理の雑誌を傍らに置きながらの食事作り。風呂のお湯はまだ大丈夫か。洗濯物はどうなっている。学校の保護者会はいつだ。冬休みが始まる。正月はどうすればいい。その前にクリスマスがくる。忘年会は……頼れる身内がいなかった。ひとり娘は小学二年だった。
 妻が入院して一カ月が過ぎたころ、それまで我慢を重ねていた娘の糸がついに切れた。
「ママに会いたいよー……」
「ママのご飯が食べたいよー……」
 寝かせつけている蒲団の中で、毎晩のように泣く。
 妻が退院してほどなく、娘が私の耳許でささやいた。
「ねえ、ママ……なんかへん。本当のママじゃないみたい……」
 抗うつ薬の影響もあいまって、妻は魂が抜けたように生気を失っていた。私は娘を強く抱きしめながら、
「ママはまだ調子が悪いんだよ。……そのうちに元気になるよ」
 小さな娘の背中の陰で、溢れる涙をそっと拭(ぬぐ)った。
 あれから十二年、当時八歳だった娘も大学生になった。私は、サラリーマン生活の中で転勤はおろか出張も残業もできなくなり、子会社へと出向になっていた。妻は十二回の入退院を繰り返し、喘(あえ)ぎながらも治療を続けている。妻の症状は、ゆるやかに改善されてはいるが、数年前までは私に対する強い不信感や苛立(いらだ)ちが現れていた。
「女がいるんだろ。白状しろッ!」
 私の胸元で包丁が鋭く光る。それが落ち着くと、一転、激しい自責の念に苛(さいな)まれる。
「どうして私はいつもこうなんだろう。これも病気のせい? もうイヤ、こんなこと……」
 肩を震わす妻の背に手を置いて、
「大丈夫だよ。今は調子が悪いんだ。ここを抜けたら楽になるよ……」
 妻の傍らで、そっと呟く。
 妻は時として深い絶望感に襲われ、衝動的に処方されている薬を大量に飲む。その量が百錠におよぶ。午前二時や三時に救急車を呼んだこともあったし、十二月三十日の夜に緊急入院したこともあった。傍らで眠る妻を見ながら、このまま朝まで気づかなかったふりをすれば、間違いなく死ぬだろう、と頭から蒲団をかぶったこともあった。だが、見殺しにはできなかった。これまでに七回、病院へ運んだ。
 妻も娘も私も、それぞれに「どうして私だけが……」という思いにしばしば立ち止まる。「こんなはずじゃなかった……」とお互いに思いながら、幸せって何だろうと考えている。
 妻はワンクール七回、二度にわたる電気痙攣療法を経、その間、平成十八年には精神障害者の認定を受けた。「私は病気なんかじゃない。病気なのはあなたの方でしょう」といっていた妻が、やっと病気を受け入れたのだ。妻の開き直りは、僅(わず)かながら病状の安定をもたらした。

 病院へ行き始めた良二からは、ポツリポツリと連絡が来るようになった。三人目の子供が無事に生まれた、との知らせもそんなメールのひとつだった。良二自身も一年間の休職期限が切れたあと、営業から事務職へ配置換えをしてもらい復職していた。それでも些細なことが刺激となり、頭がパニックになるという。
 二艘(そう)の小舟が荒波に翻弄(ほんろう)されつつ、互いに声をかけ、励ましあいながら凌(しの)いできた。学生時代に飲んだくれてバカをやり合っていた我々が、二十数年を経て、助け合いながら歩むことになるとは思ってもいなかった。
「おーい、だいじょうぶか」
「今日、娘たちと餃子作ったぞー」
「無理するなよ」
 そんなメールのやりとりをしながら、次々と立ち現れるうねりをやり過ごしていた。
 平成十七年の暮れ、良二は早期退職制度に従い会社を辞め、自宅の近くにガラス工房を開いた。インターネットでガラス彫刻の販売を始めたのだ。私も贈答用にマグカップを何度か作ってもらい、会社の創立記念品もワインボトルに彫刻を施したものにした。電話での打ち合わせも頻繁に行い、時々、一緒に飲むこともあった。医師からは、もう薬はいらないでしょう、といわれるまでに回復していた。
 良二のガラス彫刻は評判がよく、地元のラジオ局が取材に訪れるほどだった。だが、良二の収入は、一家を支えるには程遠かった。

 平成二十一年十月、長野県の山中で良二が発見された。林道に止めた車の中で睡眠導入剤を飲み、練炭自殺を図ったのだ。
 良二の妻も彼の異変には気づかなかった。数日前に良二から届いたメールにも、なんの予兆も感じられなかった。ブログもいつものペースで更新されていた。
「――ずるいよ、逃げちゃうなんて……。卑怯ッ!……」
 良二の死を知らせる電話口で、良二の妻が声をふるわせた。
「衝動的じゃないわ。良二さんは周到に計画していたのよ。私にはその気持ち、わかるわ」
 妻がポツリと呟いた。
「死のうと思うんじゃないのよ。うつがひどくなるとね、この世から自分の存在を消したくなるの。結局、死ぬことと同じなんだけど……でも違うのよ」
 良二の死は、私の妻にとっても体調を崩すほどの衝撃だった。
 高三、中三、そして発病後に生まれた六歳の三人の女の子を残し、良二はまた何もいわずに去って行った。四十九歳六カ月の生涯であった。
「セッちゃん、だいじょうぶか」
「今日、下の娘の入学式だったの」
 二艘の小舟は、大きな荒波を乗り越え、再び沖へと漕ぎ出している。

              平成二十一年十月 霜降  小 山 次 男


付記

 本作は、平成十五年十一月に「こころの病」として発表していたものに、平成十八年九月に加筆し「人生の航路」と改題。さらに平成二十一年十月、「二艘の小舟」と再改題し平成二十二年四月に加筆している。