Coffee Break Essay



  『人間の驕り』




最近、おかしな病気がやたらと多過ぎないか。

エイズから始まって、エボラ出血熱、BSE(牛海綿状脳症)問題、
サーズ(新型肺炎)騒ぎがあったかと思ったら次はコイヘルペス。
そして今回、鳥インフルエンザだという。
こういったニュースがここ数年、途切れることがない。

生産者や関連業種のひとにとっては大打撃、まさに死活問題である。
その陰で笑いが止まらないのは、マスク屋と消毒液屋か。

宮崎駿の世界ではないが、これは明らかに地球上をわがもの顔にのさばり、
驕(おご)り昂(たかぶ)っている人間への警鐘ではないか。
神の仕業とまでは言わないまでも、人間が自ら墓穴を掘っているように思えてならない。

何といっても気の毒なのは動物たちである。
BSEではウシ、サーズのハクビシン、ニワトリからコイまで大量に処分されている。
半端な数ではない。

身の潔白を主張する術もない彼らは、人間が抱いた「恐れ」という感情により、「処分」という耳障りのいい表現で何百万匹も殺されている。
彼らにしてみれば、何が何だか判らない内に殺されるのだから、たまったものじゃない。
やむを得ないことなのだろうが、人間とは残酷極まりない動物である。

だが、ハクビシンやコイはよくわからないが、我々の日常で家畜や家禽はなくてはならない食材である。
たまには高いお金を払っても、和牛ステーキが無性に食べたくなるときがあるし、
夕方、焼鳥屋の前を通っただけで、その匂いの誘惑に負けそうになる。
我々が雑食動物であることに、改めて気付かされるのである。

普段、私たちは、スーパーなどで肉を買い求める。
動物本来の形状を留めていない肉片であるので、それを見ても気持ちが悪いという感情を抱かない。
だが、よく考えてみれば、誰かが殺しているのである。
つまりスーパーの食肉コーナーは、人間によって切り刻まれた動物の死体売り場なのだ。
ということは、いくら魚屋が元気な声で「奥さん、活きのいいサンマどうだい。安くしとくよ!」と言ったって、所詮、死んだ魚。
活きがいいという表現は誤りで、あえて言い直せば「奥さん、死んだばかりで、まだ死後硬直状態が続いているサンマどうだい。安くしとくよ!」が正確な表現となる。
つまり、魚屋もサカナの死体置き場だったのである。
こう言ってしまうと、身も蓋もない。
考えただけで気分が悪くなる。
このように考えること自体、正常な人間とは見なされないので、この辺で止めておく。

誰しもそうだろうが、生き物を殺すということを、最近、ぜんぜんしていない。
せいぜい蚊を叩くか、ゴキブリを退治するくらいだろう。
昔は、自分たちでニワトリを捌(さば)くのが当たり前の時代があった。
昔の人は殺生に対し、ありがたく命を頂く、という謙虚な気持ちが働いていたに違いない。
誰もが肉を食べるのに、他人に殺してもらった動物しか食べられないとは、誠に身勝手で情けない話である。

中学の頃、学校帰りに雌のキジを捕まえたことがある。
もちろん野生である。北海道の田舎のことであり、とりわけ珍しいことではなかった。
私は、キジが大好物だったので、さっそく食べようと思ったのだが、
誰も嫌だといって捌(さば)いてくれない。
仕方なく、自分でキジの首をひねろうと何度か試みたのだが、
そのたびにキジに睨まれ、結局数日後、山へ放った。
これがツルならば恩返しもあろうが、相手がキジだったので梨の礫(つぶて)。
せめてキビ団子でも食わせておけば、話は違う方へ展開したかも知れない。

高校の頃、従姉妹に連れられて初めてケンタッキーフライドチキンを食べた。
場所は札幌である。初めて見たフライドチキンのグロテスクな姿に身の毛がよだった。
遠慮するなといわれながら、大変な思いで食べた記憶がある。
肋骨を口の中で選り分けて食べるのにひどく抵抗を感じたのだ。
フライドチキンごときで躊躇(ためら)っている男が、鳥を捌ける訳がない。

最近、愛犬の鳴き声を判別する小型の装置が、ペットショップで飛ぶように売れているという。
その鳴き声で、腹が減ったのか、小便がしたいのか、
はたまた散歩に出たいのか、小さな液晶画面に表示されるそうである。
(そんなものは、本来、飼い主が察すればいいことであり、そんなことが判らぬような人間に動物を飼う資格はないと思うのだが)
将来、この装置が発展して、ウシがモーといっただけで「殺さないで下さい」と出てきたら大変なことになる。

弱肉強食の時代といわれて久しい。それは人間界の中でのことを意味する。
自然界では、ライオン、トラ、チーター、ヒョウ、ジャガー、ピューマなどといったネコ科の動物がその頂点に立つ。
ワニやサメにすらとうていかなわない。
時々我々は、自分たちがその頂点にいると錯覚している向きがある。
だが、アフリカのサバンナを素っ裸で歩くことを想像すればすぐわかることなのだが、
人間は、あの忌み嫌われている(勝手に人間がそう思っているだけなのだが)ハイエナより下である。
ハイエナとの一騎打ちでは勝てっこないのだから。
もちろんオオカミより下で、下手をすればオオカミの親戚である犬といい勝負になるかも知れない。
つまり我々人間は、自然界においては、犬、猫の親戚にかなわぬひ弱な動物なのである。
しかも大半の人間が、自分で動物を獲って食べることすら出来なくなっているのだから。

かくして私たちは、動物たちの断末摩の叫びや、吹き出す血飛沫(ちしぶき)を浴びることなく、マナーに気を遣いながらのうのうと豪勢な肉を食し、下腹に過剰な脂肪をせっせと溜め込んでいるのである。
それがために自らの命を落とすという、自業自得との闘いに日夜躍起になり、挙句の果てには、悪徳ダイエット業者に騙され、ケツの毛まで抜かれるという恐ろしい環境の中で暮らしているのである。


                     平成十六年三月  小 山 次 男