Coffee Break Essay



  『逃した魚』




就職活動をしていた学生の頃、どんな職業につこうと経理の仕事だけはやりたくないと思っていた。
その頃、簿記とはいかなるものか全く知らなかったが、漠然とした拒否感があった。
それから二十一年、経理を主体に総務、人事全般に関わる仕事をしている。

さらに、私は幼い頃から車酔いが酷(ひど)く、自動車に対し忌避感を抱いて成人した。
車に対する興味は、運転免許を取得しても皆無であった。
まわりには車好きな友達も大勢いたが、どうしても好きになれなかった。
そういう私が入った会社は、石油関連会社、
入社して真っ先に配属されたのがガソリンスタンドだった。
そこでの三ヶ月は、生涯忘れ難い想い出となった。
そして現在、関連会社に在籍し、自動車用品販売・製造業という職場に身を置いている。
人生とは儘(まま)ならぬものである。

去年(平成十五年)の春、縁あってエッセイの同人誌に所属した。
そこで出会った大先輩のIさんから、シナリオを書いてみませんかという熱心なお誘いを受けた。
Iさんは同人誌のスタッフを勤める傍ら、舞台劇の脚本や演出、また、ラジオドラマのシナリオを手がけている、六十代の精力的な女性である。

あなたはシナリオになるような素材をたくさん持っています、文章に筆力があるなどと煽(おだ)てられ、脚本家のF先生の下で一緒に勉強しませんかという。
このF先生、聞くと大変著名な方で、素人が易々と門下生になれるような御仁ではなかった。
脚本家を目指している人にとっては、またとない好機、それこそ垂涎(すいぜん)の的(まと)。
こんなチャンスは長い人生の中でもあるかないかのことである。

この話がある少し前に、私は長いエッセイを書いてIさんに進呈していた。
それは、私が独身時代に、警視総監賞をもらったときの話を綴ったものである。
実は、この文章がエッセイとして通用するかどうか、Iさんの判断を仰ぎたかったのである。

ところがそれを読んだIさんが、私のエッセイをF先生に披瀝していたのだ。
このストーリーをもう少し膨らませると、いい脚本になります。
この人の眼差しの暖かさが大切なンです、と先生がベタ褒めだったとIさんから興奮気味のメールが届いた。
何でも私の書いたものがサスペンスコメディーになるらしく、なかなか書ける人のいない分野だという。
サスペンスコメディーとは、ハラハラドキドキさせながら笑わせるもので、最近の代表格では『踊る大捜査線』がそれにあたる(と思うのだが)。

門下生が企画したF先生の誕生会の席でも、私のエッセイが話題に上り、そのあらましを先生がみんなの前で紹介していたという。
そういう経緯があってIさんからのお誘いとなった。

夢のような話に、私は跳び上がった。
これで私が独身であったら、一も二もなく飛びついていたであろう。
夢の切符を半分は手にしたようなものである。
だが、今の私には支えなければならない家族があった。
しかも妻が重篤な病に倒れ、この六年間、家事の一切を私が切り盛りしている。
どう考えてもシナリオは不可能であった。

しかも私、それまでシナリオなるものを一切読んでいなかった。
機会は何度かあったが、読み難いものとしてあえて避けていたのだ。
ニンジン嫌いな子供が、炒飯の中から職人芸のような器用さでニンジンを選り分けるように。
だからIさんからのお誘いがあった時、身に余る光栄と思いつつ、天を仰いでしまったのだ。
よりによって何でシナリオなンだ、と。慌ててシナリオと脚本、戯曲の違いを辞書で確認するといったレベルなのである。

さらに、F先生の門下生となるためには、シナリオライター養成講座を半年受講して、基礎技術を身につけなければならないという。
その講座の詳しい内容もIさんは知らせてきた。

ダメだと分っていても諦め切れず、輾転反側の数日を過ごした。
こんなチャンスをみすみす逃すバカがどこにいる。
苦難の下積み生活の中、あの時あのチャンスがなければ、今の私はありませんでした、とよく聞くサクセスストーリーのフレーズが頭を掠める。
だが、どう逆立ちしても無理なものは無理であった。

やむなくIさんに辞退を伝えるメールを送った。
そのメールには家庭の事情を綴ったエッセイを添付した。
時を経ずして、Iさんから返信があった。
事情を知らず申し訳なかったという言葉に続き、このエッセイ、使えます、と。
シナリオは私が教える、というさらに熱心な申し出があった。
かくして私は、シナリオを書かざるを得ない状況に追い込まれたのである。

早速、翌日には本屋に出向き、シナリオのハウツー本を購入。
シナリオ専門誌を通勤電車でもみくちゃになりながら、片っ端から読み始めた。
しかも無謀にもほぼ同時進行でシナリオを書き始めたのだ。
腕を組み、空を睨み、頭を抱え、髪の毛をかきむしり、パソコンに向かって呻(うめ)きながら、表現し切れないもどかしさに身を捩(よじ)ること三ヶ月。
苦闘の末、ペラ(二百字詰原稿用紙)でちょうど六十枚、
一時間もののテレビドラマの脚本(のようなもの)を書き上げた。

人生四十数年、これほど濃い時間を過ごしたことがあったろうか。
推敲に推敲を重ね、もうこれ以上直しようがないというところまでとことんやった。
それゆえ、書き終わった後には、味わったことのないような清々しい気分が、体中に満ち溢れていた。
その一方、パソコンに向かい過ぎたせいで、ひどい肩こりと腱鞘炎になってしまった。
たまらず接骨院へ行くと、肩から腰にかけて鋼鉄が入っているようだといわれ、毎日通う私のせいで、接骨院の先生が腱鞘炎になりかけた。
でも楽しかった。人間、やれば出来るのである。

Iさんから添削が戻ってくる間、私は妄想に取り憑かれていた。
どこのテレビ局に応募しようか、五百万、どうせなら八百万円の局がいい。
懸賞金を手に、自分の作品が映像になるのを夢想し、配役はどうしようかと思い悩んでいた。

かくして一ヵ月後、Iさんの字でギッシリと書き込みが入った原稿が戻ってきた。
同封のコメントには、短期間でよくここまで書きましたと労(ねぎら)いながらも、厳しい指摘が随所にある。
結論から言うと全面書き直しである。
かなりの書き直しはある程度予想していたが、ストーリー自体の組み直しは想定していなかった。
人生、甘くはなかったのである。

気を取り直して原稿に向かったが、どう捻(ひね)っても何も出てこない。
シナリオはエッセイなどとは違って、ストーリーの組み方がかなり特殊なのである。
その手法に私の能力がついて行けなかった。
既に私は燃え尽きて、頭の中にはカスしか残っていなかったのだ。
シナリオの本によると、初稿から実際の映像になるまでに、全面書き直しも含め平均八回程度の直しがあるという。
直しができて初めて脚本家、つまり、書き直せる力が、プロの技量だという。

ここで私は、あえなく撃沈したのである。だが、やめた訳ではない。
ちょっと休憩、格好良く言うならば充電中であると自分に言い聞かせている。
それが極めて「安易」であり、「甘え」であると言われても致し方ない。
大半の人がこの段階でダメになる。
ここを乗り越えて初めてプロへの次なるステップへ進んで行くのだから。
ああ、情けない、不甲斐ない。

かくして私は、人生の好機をみすみす逃したのである。
人生とは、かくもシナリオ通りには行かぬものかということを、身をもって体験した訳である。


                    平成十六年五月  小 山 次 男