Coffee Break Essay


 『年賀状』



 毎年、十二月が近づくと憂鬱になる。原因は、年賀状である。

 学生の頃は一枚一枚手書きで、多少なりとも楽しんで書いていた。元日の朝には、年賀状を心待ちにしたものだ。会社に入ってからも、数年はその延長だった。それが次第に苦痛になってきていた。忙しくて書いていられない、というのが原因である。単なる宛名書きに過ぎないじゃないか、嫌になればいろんな理由が浮かんでくる。

 もらうと嬉しいのに、出すのが面倒など、もってのほかである。そのうちに、大晦日の三十一日から一日にかけてまとめ書きをするようになった。年も明けていないのに、「明けましておめでとう」もないだろう、そんな気分にはなれない、というのがいい分である。そんな年賀状も次第に苦痛になり、会社関係の人には出さない、と決めた。どうせ会社で会うのだから、出さなくてもいいではないかと。それでも親類や友人にはせっせと年賀状を書き続けた。年賀状は毎年、百枚ほどの分量である。親の兄弟が多い分、従兄も多い。私の年賀状の半数は親類関係である。

 結婚してからは、毎年、家族写真の年賀状にしている。子供だけの写真の年賀状をよくもらうが、それと同じじゃ芸がないと、ずっと家族写真にしている。年に一度の、記念撮影になっている。しかも、ズボラなのでいつも家の前で撮っている。気づくと家族の定点撮影になっていた。

 毎年、順調に撮りつづけてきたが、ここに来てつまずいた。十二歳の娘が嫌がるようになってきたのである。そういう時がいつかは来ると思っていたが、その兆候が出てきたのだ。娘をなだめて何とか撮ったが、いずれの写真も娘の顔は不機嫌だった。

 写真の年賀状も、今回でお仕舞いかなと思っていた矢先、思わぬ年賀状をもらった。高校時代、寮の事務を執っていた女性からのものだった。

「お嬢様、御成長されて、お嬉しいことでしょう。お父様にダッコされて居られたのに、すっかりレデーになられ、私も楽しみです。お写真も今年で十枚頂いて居ります。有難うございます。私にとっては宝物です。(略)どうぞ今年も佳い日々をお過ごし下さいませ」

 年賀状にしては、長文コメントであった。

 喪中などで出さなかった年を除くと、今年で写真年賀状は十枚になる。この中島さんは、我が家の年賀状を全部とっているのだ。「宝物」といわれ、妻と顔を見合わせた。お互い、どうしよう……という顔になっている。

 中島さんは、すでに寮の事務を引退している。もう七十代なかばではなかろうか。ひとり暮らしかも知れない。とても優しいひとだった。

 正月が明けると、会社へ向かう足がひどく重い。こちらは社員の誰にも年賀状を出していないので、年賀状をくれた社員に顔を合わせるのが気まずいのだ。年下の者には、「俺には書くなよ」と前もっていってあるのだが、それでも毎年くれる者がいる。十数年、心を鬼にして出さない≠続けてきたが、とうとうその苦痛に堪えきれず、その禁を解いた。

 その途端に気持ちが軽くなった。朝、会社で会った同僚から「感動しました」といわれる始末である。消え入りたいほど恥ずかしかった。来たのに出さないのは、どう考えても失礼である。たかだか年賀状ごときに、十数年も振り回されていた自分が情けない。

 お詫びとはいえないが、年賀状のお年玉当選番号を調べていて、今年、我が家から出した年賀状の中に二等があるのが判明した。書き損じた年賀状と余った年賀状の番号を見ていて分かった。だが、誰のもとに届いたかは、わからない。

 当たったよ、と書いてくるかも知れない来年の年賀状が楽しみである。

                    平成十四年二月  小 山 次 男

 追記

 平成十九年五月 加筆