Coffee Break Essay




 「眠りの問題」


 眠れなくて困っている、といえば少し大げさになるか。

 ストーンと眠りにつけたためしがない。そしてまた、爽やかな目覚めを感じたこともない。ストーンと落ちてスカッと起きる、もう何十年もそんな感覚を味わっていない。

 エッセイを書き始めたのは四十歳からなので、十六年になる。夢中になってキーボードを叩いて、寝る直前までパソコンに向かう。そもそも、それがよくないのだ。だが、やめられない。今、書くことを止めたら、私には何も残らない。そんなたいしたものは書いていないのだが。

 興に乗って気づいたら午前一時を回っている、そんなことがかつてはよくあった。今、そんなことをしたら、翌日の仕事に支障をきたす。いや、ほとんど仕事にならない。だから、時計を気にしながら午後十一時前には、強めの酒を口にする。あまり酔い過ぎても書けなくなる。午前零時前、あきらめて布団に入ると、それこそストーンと眠れるのだ。だが、翌朝の目覚めがよろしくない。

 ナイトキャップを始めたのは、文章を書くようになってからだ。眠りにつくためだけに酒を飲みだした。

「晩酌はされるんですか」

 と訊かれ、

「ハイ、ほぼ毎日です」

「何を飲まれるんですか」

 といった会話はよくする。だが、いわゆる酒を楽しむための晩酌ではない。だから寝る直前まで飲まない。酒があまり好きではない、という裏返しにもなるのだが。

 最初は日本酒一辺倒だったが、身体に悪いと考え焼酎に切り替えた。飲みすぎないように麦ではなく、癖の強い芋焼酎を飲んでいる。そもそも日本酒を飲みだしたのも、私にとって苦手な酒だったからだ。だが、いつの間にか日本酒が好きになっていた。だから、焼酎に変えたのだ。身体には気を遣っている。

 若いころはさほど目覚めの悪さを意識しなかったが、最近ではまるでダメだ。朝起きた瞬間から、タールでも飲み込んだように意識が澱んでいる。眠りにつく前よりも疲労感を覚えるのだから、どうしようもない。

 しかも私は、元来胃腸が弱い。胃の重苦しさで午前四時前後にいったん目覚めてしまう。アルコールの利尿作用で、尿意もある。その後は、寝たのかどうかわからぬうちに起床の時間を迎える。眠りの浅さは天下一品だ。ちょっとした物音で目を覚ます。そんなこともあって、一日中、カフェインの力を借りて意識を保っている。だから飲み会では、酔いつぶれる前に寝てしまう。東京にいたころは、どれだけ地下鉄を乗り過ごしてきたことか。オーバーランの常習者で、社内で私の右に出る者はいなかった。飲み会の翌日は決まって訊かれた。

「昨日は、どこまで行った?」

 パソコンに向かう。眠れない。酒を飲む。胃が重苦しくて目覚める。朝が辛い。日中が眠い。カフェインを摂取。胃薬を飲む……断ち切れない悪循環が、延々と続く。最近は、市販の胃薬で誤魔化しているが、何年もの間、病院で薬をもらっていた。その方が安上がりだからだ。医者に正直にいうと怒られる。だら、仕事のストレスだと言っていた。あながち間違いでもない。

 医者は簡単に、睡眠導入剤を処方してくれる。だが私は、この睡眠導入剤が体質に合わない。翌日に眠気が持ち越すのだ。昼間、得もいえぬ嫌な眠気が、脳ミソの底にこびりついているのだ。医者は決してそんなことはないと首をかしげるが、眠いものは眠い。だからついつい酒に頼る。

 運動してクタクタに疲れればいいじゃないかと思い、夜のジョギングに出かける。帰ってきてシャワーを浴びると、眠気が吹き飛ぶ。気分がさらに高揚する。そしてパソコンに向かう。正直、走る時間がもったいないとも思う。早朝のジョギングなど、もちろん考えられない。

 アルコール中毒になるほど酒には強くはない。だが、習慣化していることは、事実である。まれにアルコールなしで眠ることがあるが、翌朝の目覚めは衝撃的だ。脳が冷水を浴びたようにシャキッとしている。採りたてのレタスをバリッと噛んだような、そんな爽快感がある。採りたてのレタスを噛んだことはないのだが。

 昨年の夏、原因不明の「尿閉」で夜中に緊急搬送された。初めての入院だった。近所で酒を飲んで、帰宅してからのことである。小便がまったく出なくなったのだ。原因は、前立腺の炎症である。真夜中の搬送で、四泊四日の入院となった。

 この入院で、酒なしで眠る快感を覚えた。看護師からは睡眠導入剤をもらって飲んでいたが、酒がなくても眠れるという、いい意味での自信がついた。しかし、「だがな……」という思いがある。

 パソコンのディスプレイに向かい、緩やかな酒の酩酊を借りて非日常に入っていく。それがたまらないひと時なのだ。ほのかな酔いの作用は、忘れていた記憶を呼び覚ます。だから、酒と文章は切り離せない。

 かつてタバコを吸っていたときも、同じようなことを言っていた記憶がある。タバコがあるからこそ文章が書けるのだ、と。当時はそれを信じて疑わなかった。あるエッセイの授賞式の休憩時間に、

「タバコがなきゃ、文章、書けないよな」

 と話している作家の一団の会話を耳にしたことがある。会場の隅に追いやられた狭い喫煙室でのことだった。だが、五十歳を機に、私はタバコを止めた。今、文章を書くのにタバコはいらない。そういう意味では、酒も同じだろうか。

 良質の睡眠は、良質な目覚めをもたらすのは明白だ。そんなことが可能になる日は、私に訪れるのだろうか。どこで折り合いをつけるか、そこが問題だ。


                  平成二十八年八月