Coffee Break Essay

この作品は、アポイ岳ファンクラブ会報「アポイマイマイ」5420087月発行)に掲載されております。


 
 『永井さんのおじさん』

 銃口が獲物を捕らえている。
 山に向かって歩いていた永井さんの左手が、スーッと伸び、後ろにいた父と私を制した。

「キジがいます」

 永井さんの左手が上下して、私たちはその場にしゃがみこんだ。永井さんは肩にかけていた散弾銃を構え、身を屈(かが)めながらゆっくりと前へ歩み出した。銃身の先を探すと、三十メートルほど先の草むらに、赤い色が見え隠れしている。雄のコウライキジである。周囲を警戒しながらしきりに何か啄んでいる。よく見ると、頭部の鮮やかな赤と緑、光沢を帯びた群青色の首、首元の純白の輪が僅(わず)かに見え隠れしている。

 十メートルほど進んだところで、永井さんの足がピタリと止まった。散弾銃の安全装置はすでにはずされ、人差し指が引金に添えられている。銃身が一直線にキジに向かっている。私たちは固唾(かたず)を飲んだ。背の高い草の中から金色の胸と鮮やかな斑点があらわになった。今だ、と思った瞬間、永井さんは構えていた銃をおろし、屈めていた身を起こした。すかさずキジは、ケケーン、ケーンという甲高い鳴き声を発しながら懸命に助走し、重そうな身体を空に舞い上がらせた。一羽だと思っていたキジは、雌と三羽の幼鳥を伴っていた。

 なぜ撃たなかったのだろう、と怪訝(怪訝)な顔をしている私たちに、

「馬がいました」

 と永井さんは微笑みながら、遠くを指差した。百メートルほど先の牧場で、サラブレッドがのんびりと草を食(は)んでいた。恐らく普通のハンターなら、馬が目に入らなかっただろう。馬に気づいていたとしても引金を引いたに違いない。永井さんはそういう人であった。

「この距離でも馬は驚くんですよ。柵を飛び出そうとして骨折しかねないですからね」

 めったに出くわさない好機を逸したにもかかわらず、永井さんはニコニコしていた。

 永井さんは、父の友人である。父より数歳年上だったので、昭和初年の生まれである。日曜日になると、私たちを山へ連れ出してくれた。永井さんと山歩きをしたのは、私が小学校高学年のころから中学を卒業して故郷を離れるまでの、僅か数年間である。

 シカやクマ撃ちにこそ連れて行ってもらえなかったが、ヤマドリ撃ちにはよく誘ってもらった。

 沢伝いに山へ入ってゆく。沢はしだいに傾斜を増し、山登りの様相を呈してくる。ときおり立ち止まっては、ヤマドリの呼び笛を吹く。ピー、ピーと吹き鳴らしていると、呼び笛よりもはるかに澄んだ透明な鳴き声が、どこからともなく返ってくる。その声が次第に近づいてくるのだが、木々の梢を見上げてもなかなかその姿が見つけられない。ヤマドリの方が先にこちらに気づいて、逃げてしまうのだ。

 しゃがみこんでいる足元を見ると、エゾ松の倒木更新が目にとまる。五センチにも満たないエゾ松の幼木が、苔むした倒木の上に一列に並んで芽を出している。北海道のような厳しい自然環境では、地面に落ちた種が発芽しても育つことができない。だが、運よく倒木に着床すれば、朽ちた木の栄養を摂って、育つことができる。後に幸田文のエッセイで知ったことである。

 初夏には、ミツバやワラビ、フキ採りに出かけた。採ってきたワラビやフキは、外に出した薪ストーブの上の大鍋で、次から次へと茹でられて行く。毎年の行事であった。

 秋にはキノコ採りに出かけた。ボリボリ(ナラタケ)、落葉ダケ、ムキダケ、ヒラタケ、エノキダケ……

「今日は、ヒラタケを採りに行きましょう」

 キノコの種類に応じて、永井さんだけが知る秘密の場所に連れて行ってくれる。いずれも山深いところである。

「おじさん、これ大丈夫?」

 と私が訊くと、即座に食用か否かを判断してくれる。
「おおッ、それは椎茸だよ。ケンちゃん、珍しいもの見つけたね」

 天然椎茸の酷深い味と香は、いまだに忘れることができない。私の山歩きは、この永井さんから教わったようなものである。

 父が早々に去り、その後永井さんも亡くなった。思えば、当時の永井さんは、今の私と同じ年齢である。山へ向かう車中、いつも軍歌が流れていた。私がいくつかの軍歌を歌えるのは、永井さんのカセットテープのおかげである。

 四半世紀のときをへた今、七十代になった母と永井さんの奥さんが、お互いに親交を深めている。


                平成二十年二月 立春  小 山 次 男