Coffee Break Essay





 「娘からの電話」


 娘からの電話では、これまでに何度かドキリとさせられてきた。

「あの……私、彼氏ができましたので、とりあえず報告しておきます」

(カレシ……)

 まあ、知らないより知っていた方がいいとは思う。だが、いきなりインコースにズバッと速球を放られ、まったく身動きができなかった。数年前の話である。だが、それまでカレシのいない娘だったので、内心ホッとする気持ちもあった。ちゃんと恋愛ができてよかったと。

 私は平成二十二年の四月に妻と別れ、翌年三月に転勤で北海道に転居している。当時大学生だった一人娘は東京に残してきた。一人にするのは心配だが、どうしようもない。

 北海道に暮らし始めて一年ほどたったころ、

「ねえ、おなかが痛いんだけど、どうしよう」

 と言ってきた。蒲団の中から電話してきているようだった。腹痛くらいで電話するなよと思いながら、とりあえず早めに病院へ行けと言っておいた。平日の午前中のことである。だが、腹痛くらいで電話するほどだから相当な痛みなのか、という考えもよぎった。それから二時間ほどたって、今度はメールが入った。

「ただ今、救急搬送中」と。ギョっとした。

 たまたま運ばれた先が、元妻の母親の自宅の近くだった。娘にとっては祖母であり、東京では唯一頼れる身内であった。

 妻は精神疾患を発症し、十二年半の闘病生活の末、同じ病気の男性のもとに走ってしまった。今、どこで何をしているのか、誰にもわからない。私が会社へ行っている間に荷物をまとめて出ていった。三日後に会社に電話があり、呼び出された喫茶店で離婚届に判を押した。そんな経緯があり、娘は一人なのだ。

 この原因不明の腹痛騒動により、娘は大学四年次の最後の試験が受けられなかった。

「ヤバい。卒業試験が受けられない。どうしよう……」

 退院後、すぐに再試験の手続きをとった。必須の単位を残していたのだ。

「ゴメン、……留年しちゃった」

(ええッ……)

 留年は半年間だという。昔のように一年ではなかった。だが娘は、いち早く就職先の内定をもらっていた。娘の学部での内定第一号だと聞いていた。大学は、そんな娘を落としたのだ。

 そこでやむなく、内定先の会社に手紙を書いた。就職を半年待ってもらえないか、と。小さな会社だったので、社長宛に正直な経緯を切々と綴った。すると間髪入れずに社長直筆の手紙が届いた。快諾の内容だった。娘はアルバイトとして会社に行きながら、授業のある日だけ学校へかようことになった。半年後、無事に正社員にしてもらった。平成二十四年九月のことである。

 昨年、平成二十六年十一月、高倉健死去のニュースが日本中を駆け巡った。

 高倉健には、圧倒的な存在感がある。そこにいるだけで高倉健である。それゆえ、亡くなったという喪失感も計り知れなく大きなものだった。私は二十代の一時期、高倉健だったことがある。それほど入れ込んでいた。

 高倉健の訃報は十一月十八日のことだが、それから十日ほどたった夜、娘から電話があった。ちょうどそのとき私は風邪のひき始めで、のどの痛みがひどかった。

「あの、大事な話があるんですけど……」

 なんだ、この妙な敬語は。この具合の悪いときに、メンドくさいことを言い出すのか、と構えようとしたとたん、

「私……妊娠しました」

(ニンシン……)

 カレシがいたので、それは想定の範囲内だった。だが、このタイミングは不意打ちだった。このインコースの速球は、それまでになくズバッときた。というか、内臓に食い込むデッドボールだった。のどの痛みも高倉健も吹き飛んだ。

「ねえ、喜んでくれないわけ。向こうのご両親は、ありがとうって言ってくれたよ」

 妊娠が発覚してから、娘はもう向こうの両親に会っていたのだ。

(どうやって喜べというのだ。喜び方を教えて欲しいものだ)

 そう思って口を開こうとしたとき、娘が先手を打った。

「だって、自分たちだってそうだったジャン」

 出来ちゃった結婚の話である。実は娘のときがそうだった。私はなにも言えなくなってしまった。そのうちに娘に話さねばと思いつつ、ついつい先延ばしにしていた。私がエッセイに書いてネットで発表しているのを、娘は密かに読んでいたのだ。

 数年前の娘の腹痛は、卵巣からの出血によるものだった。原因はわからなかった。もしかしたら、娘は将来子が産めないのではないか、そんな思いが頭をかすめていた。それが払拭された。娘はもう二十五歳だ。結婚したっていいし、妊娠してもいい歳だ。結果オオライでいいじゃないか。そう割り切ろうとするのだが、どうしても手放しで喜べない。

 間もなく娘はカレシのいる長野県の安曇野で暮らすことになる。そして実母のいないところで出産する。幸い、カレシの両親が近所に住んでいる。だが、神経の細い子であるがゆえ、それが不憫でならない。要は、心配なのだ。

 だから、どうやって喜べばいいのか、それがまだよくわからないのだ。


                 平成二十七年二月  小 山 次 男