Coffee Break Essay


 「武者の勇猛ぶり ―米良亀雄―」


(米良亀雄)

 この神風連の乱に、私の曾祖父の兄米良亀雄がかかわっている。

「米良亀雄。墓は熊本市本妙寺常題目(じょうだいもく)墓地にある。名は実光。家は島崎にあり兼松群喜・繁彦ら近くにありて最も親しく高麗門連に属し、尊攘(そんじょう)の志あり。一挙のことあるや蹶然(けつぜん)起つて参加し、鎮台(ちんだい)歩兵営襲撃にありて奮戦し、弾丸にあたって重傷をうけ、岩間小十郎宅に退き、官兵捜索に来るを見て立川運(はこぶ)、上田倉八、大石虎猛(とらたけ)、猿渡常太郎、友田栄記らと共に自刃す。年二十一」(荒木精之著『誠忠神風連』)

 と記されている。また、荒木精之氏の『神風連実記』にも同様な記述が見られる。

「米良亀雄。米良家は百五十石取りの家であった。武道にすぐれ、慷慨(こうがい)の心ふかく、一挙のさそいをうけて欣然(きんぜん)参加し、敵弾を膝にうけ、刀を杖ついて本陣に退き、岩間邸にうつって自刃した。年二十一」

 いずれの記述も「武士は拙速を尊び、巧遅を喜ばず」という、当時の武士の気概が窺える。亀雄は高麗門連(こうらいもんれん)に属していた。

 明治のジャーナリスト徳富蘇峰(そほう)が、その著書『蘇峰自伝』の中で、亀雄のエピソードを次のように伝えている。

「(略)また時々付近の神風連から(蘇峰が寄宿していた塾にむけて)石を見舞われたりしたことがあった。先生の塾の程遠からぬところに、兼松某、米良某など、いずれも神風連の荒武者がいた。彼らは明治九年の暴動にいずれも切腹して死んだが、予は途中彼らに出会(しゅっかい)することをすこぶる危険に感じていた。さればなるべくそれを避けていたが、時たま余儀なく出会いせねばならぬ場合にも遭遇した。彼らはことさらに横たえる双刀を、前に一尺ほども突出して佩(はい)し、結髪はもちろん、大手をふって途中を歩き、もし万一まちがって彼らにさわりたらば、たちまち打つとか殴るということになるから、さわらぬ神にたたりなしで、なるべく近づかないことにした。予は仕合せに一度も彼等にいじめられなかったが、しかしそのためには、かなり心配をした」

 渡辺京二著『神風連とその時代』では、この引用に続けて「これは明治五、六年のことであり、このとき米良亀雄は十八歳、兼松群喜は二十歳ぐらいになる。両名とも九年の一挙に敗れた後、自決した」と記されている。

 兄亀雄の自刃のとき、弟の四郎次(しろうじ)、つまり私の曾祖父は十一歳であった。四郎次は明治二十二年に熊本を引き払い、屯田兵として渡道する。

 荒木精之氏は昭和十六年頃より、神風連の乱に参加した者の墓を探索している。亀雄の墓を本妙寺常題目の墓域(現在の岳林寺管理墓地、島崎・小山田霊園)に探し当てた時の感慨を二首の歌に託している。

  藪をわけ さがせし墓の きり石に 御名はありけり あはれ切石

  まゐるもの ありやなしやは 知らねども 藪中の墓 見つつかなしえ

 墓碑には、「明治九年 米良亀雄実光墓 旧暦九月九日卒 歳二十一」と刻まれている。

 その後、亀雄の墓は再び時の流れの中に埋没してしまったのだが、平成二十年に当時熊本の自衛官だった久直広氏によって見出される。その墓域には亀雄の墓を含め、米良家の墓が五墓碑あった。

 平成二十二年、私は米良家の名代として明治二十二年に曾祖父四郎次が熊本を離れて以来、一二〇年ぶりに熊本を訪ねる機会に恵まれた。

 私の祖母の弟と妹が、現在、八十八歳、九十二歳で存命である。彼らにとって亀雄は、父親の兄、つまり伯父に当たる。そう考えると、改めて驚きを隠せないのである。

                                 (つづく)

【参考文献】

・荒木精之『神風連実記』 一九七一年、新人物往来社

・荒木精之『誠忠神風連』 一九四三年、第一藝文社

・徳富猪一郎『蘇峰自伝』 一九三五年、中央公論社

・渡辺京二『神風連とその時代』 一九七七年、葦書房(のち洋泉社MC新書・二〇〇六年、洋泉社新書y・二〇一一年)

                平成二十四年九月   小 山 次 男