Coffee Break Essay


 「武者の勇猛ぶり ―吉村義節―」


 平成十七年から祖母(母方)の家系を調べている。祖母の旧姓は米良(めら)といい、熊本藩の下級士族であった。史家の協力を得ながら、五年がかりで調べ上げた内容を『肥後藩参百石 米良家』と題し、この秋、福岡の出版社から刊行する予定でいる。

 史料の調査過程で、印象に残った武者の勇猛ぶりがあり、本書でも一部は採録した。だが、全てを取り上げることができなかったので、重複する部分もあるが、ここに記しておきたい。

(吉村義節)

 吉村義節(ぎせつ)は肥後の下級士族である。古武士の風格があり、勇猛義烈な性質をもっていた。荒木精之著『神風連(しんぷうれん)実記』からその一端を紹介する。

 吉村は維新のはじめ、仕官して江戸にいた。平素は、暇さえあれば武術の鍛練に励んでいた。ある日、柔道の稽古をしていて、誤って脚を骨折してしまった。しかも下手な医者の手当のため、脚が不自由になってしまった。

 やがて熊本に戻った吉村は、整骨の名医といわれていた井上謙斎を訪ね、治療を乞うた。吉村の脚を診た井上は、

「これはもう筋肉が固結していて、どうにもならぬ」というと、

「それは困る。何とかしてくれ」と吉村が食い下がってきかない。

 やむなく井上は、

「もう一度折れば治せるのだが……」

 というと、吉村はその場で即座に自分の脚の骨を折ってみせた。しかも吉村は悠然としており、少しも痛みを感じていない様子である。驚いた井上が、

「君、痛くはないのか」と問うと、

「痛いといえば、痛くないのか」と逆に吉村が訊き返してきた。

「いや、痛いといっても痛さは同じだ」と井上が答えると、

「それなら言うまい」と言ったという。

 とてつもない男である。

 その後、吉村は明治九年(一八七六)に熊本で起こった神風連の乱に参加している。神風連の乱とは、明治維新後、時代が大きく転換する中で、旧勢力となった士族たちが起こした反乱である。彼らを憤激させた新政府の処置は数々あるが、決起につながる大憤激は明治九年三月の廃刀令の布達であった。「刀は武士たるものの魂であり、帯刀は神州古来の美俗である。刀を奪われては生き甲斐もない」というのが彼らの言い分であった。それに追い討ちをかけたのが、六月に布達された断髪令である。

 敬神党(神風連)が決起した。加勢を含めた二百人足らずの勢力が、当時、熊本城に置かれていた熊本鎮台(ちんだい)の新政府軍二三〇〇人に挑んだのである。だが反乱は、一夜のうちに鎮圧された。「我が神軍には洋風の兵器は不要」と、彼らは鉄砲の使用を受け容れなかった。負けは目に見えていた。

 敗走した吉村義節ら四名は、再起を期して身を潜めていたが、もはやこれまでと自決を覚悟する。「死ぬべきときに死なねば、死に勝る恥がある」のである。

 四人はそれぞれ辞世を書き残し、別に白布を割いて銘々氏名を記してそれを髪に結びつけた。まず、松井正幹が弟である吉村に介錯を頼んだ。続けて植野常備(つねとも)、古田孫市の二人も吉村に介錯を依頼した。

 座につくと松井、続いて植野と割腹、吉村はその介錯を見事に果たした。三番目の古田が腹を切ったので、吉村も介錯の刀を打ち下ろしたが、今度は手許が狂って半端になってしまった。豪気の古田が、

「おそろしゅう痛かぞ、痛くないように斬ってくれ」

 と下から見上げて言ったので、吉村は顔を赤らめ、

「わるかった」

 と再び刀を振り下ろして、その身首を異にした。

 激戦の後の山中彷徨(ほうこう)や潜伏、飢餓が重なり、吉村の体力も限界に達していた。三人の介錯をすました吉村は、さすがに眼もくらむばかりの疲労を覚えた。だが、今度は自分の番である。腹を切って返す刀で咽喉を突いたが、急所をはずし締(こと)切れぬ。「しまった」と刀を引き抜き、さらに突き立てたが、やはり死に切れない。

 この時、吉村は用便を催した。畑の隅に立って行き、用便をすますとまた元の座に帰り、三たび咽喉を突いたがどうにもならない。出血は衣服を染め、苦悶に顔はゆがみ、幽鬼のごとき形相になった。

 やがて夜が明け、近くの農夫が通りかかって驚嘆する。吉村が水をくれといっても、斬ってくれと頼んでも近寄らず、巡査屯営に急を報せたので警吏が飛んできた。巡査は、すでに意識朦朧(もうろう)となっている吉村に手縄をうち、県庁に護送した。

 かくして吉村は生き残ってしまった。そのために自刃の経緯が後世に残った。

 その後、吉村は斬罪を得、従容として斬刑に処せられた。

 時に松井四十二歳、植野三十六歳、古田二十六歳、そして吉村は三十二歳であった。

 吉村が介錯した、植野、松井、古田はいずれも高麗門連(こうらいもんれん)の一派である。高麗門連とは、百石から四、五百石の家禄の士族二十二名からなる一団で、植野常備が率いていた。「連」とは郷党のことで、士族の若衆組に起源をもつ地域集団である。伝統的家臣団の多くが郷党に属しており、当時の一般的士族の別称となっていた。敬神党とは気脈相通じるところがあり、一挙の際には協力提携するという盟約ができていたのである。 (つづく)



【参考文献】

・荒木精之『神風連実記』 一九七一年、新人物往来社


                 平成二十四年九月   小 山 次 男