Coffee Break Essay



  『報われる思い』




 二〇〇四年、同人誌に発表していた私のエッセイ(『警視総監賞』)が、文藝春秋の「二〇〇五年版ベスト・エッセイ集」に収録された。二十三歳で見た夢が四十五歳で叶った瞬間であった。コツコツやっていれば、いいこともあるんだなと実感した。

 実家の母が騒いだおかげで、北海道新聞に採り上げられた。その日、早朝に札幌をたち母のもとに向かっていた補聴器屋が、カーラジオから流れてきたニュースに血相を変えた。

「お宅の息子さん、ラジオのニュースに出てましたよ……」

 自分が向かっている先の婆さんとその息子の名前が、突然ラジオから聞こえたのだから驚いたのも無理はない。そうとう飛ばしてきたらしく、予定の時間よりかなり早く着いた。

 私がエッセイを書いているなど想像すらしていなかった親戚が、新聞に載った私の写真を見て腰を抜かした。その日は家を空けられないほど電話があった、と母が喜んでいた。

 多くの人が自分のことのように喜んでくれた、それがなにより嬉しかった。だが、困ったことは、「次は直木賞だな」というささやきを何度も耳にしたことだ。田舎の年寄りにしてみれば、エッセイも小説も一緒なのである。

 私のエッセイをいつも喜んでくれるのが、高校時代の担任である。先生は昨年、定年退職を迎えたのだが、非常勤職員としてまだ学校にいる。国語担当で、当時の私の成績をよく知っている。というか、目立った成績ではなかったので、まったく記憶にはないはずである。私は三年間を通して、七十点を超える点数を一度も取ったことがなかった。とりわけ作文を苦手とした。毛嫌いしていた。そんな私がどうして文章を書くようになったのか、先生はこれ以上曲がらないというほど首をかしげている。

 だが、一番驚いているのは、当の私である。自分でも決定的に思い当たる節がない。しいてあげれば、こつこつ日記をつけていたこと。二十数年、往復二時間の東京の通勤電車で読書をしていること。この二つだけである。人様に読んでもらえるような文章を書くなど、夢にも思っていなかった。

 文章を書く動機は、妻の長期にわたる闘病生活にある。担任の先生には、説明が面倒なのと、今のところ会う予定もないので、事情を話していない。

 結婚八年目、妻は突然、精神疾患を発症した。以来、今日まで九年にわたり闘病生活を続けている。このままだと妻よりも先にこちらがダメになってしまう、という危機感に襲われた。それがパソコンに向かって文章を書くきっかけだった。

 パソコンだと文章の手直しが格段に簡単である。インターネットがそれを後押しした。エッセイを書き出したのは妻の発症から二年、二〇〇〇年のことだった。私が四十歳の年である。

 ひとつの文章を、何カ月もこねくり回す生活が始まった。書いては直し、付け足しては削るうち、私の手元に作文がたまってきた。書き出して二年目、はたして自分の書いているものが、エッセイとして通用するものなのか、という強い疑念がわいてきた。「これでよし、そのまま続けろ」という後押しが欲しかった。それが公募のコンテストに応募するきっかけだった。

 実は、いまだにすんなりと文章を書いたためしがない。推敲ばかりしている。嫌気がさしてくるが、ここまでやってきたんだから、書けるだけ書いてやるという意地にも似た気持ちでいる。

 一去年のベスト・エッセイ集の余韻がまだ消え去らぬ中、「二〇〇六年版ベスト・エッセイ集」への収録の連絡をもらった。

 『昆布干しの夏』というこの作品は、学生時代に郷里の様似で昆布干しの手伝いをした話である。この作品で、二〇〇四年に小諸市が主催する第十回小諸・藤村文学賞で優秀賞をもらっていた。それが翌年、小諸市から「第十回・十一回小諸・藤村文学賞優秀作品集」として冊子になったのを機に「ベスト・エッセイ集」へ応募していたのだった。せっかくの応募チャンスを無駄にする手はないという動機だった。正直な話、連続は無理だろうと思っていた。

 一報をもらったときは、鳥肌が立ち、眩暈に似た感覚に襲われた。数日後、所属する同人誌が主催するエッセイ賞の授賞式と懇親会があった。会場設定の手伝いをしようと、早々会場に入った私は、仲間から拍手と歓声で迎えられた。

 実はこの作品、四年前にこの同人誌のエッセイ賞で最優秀をもらった作品とともに応募し、選外になっていたものだった。予備選考で『祝電』派と『昆布干し』派に分かれての議論があった、と聞いていた。最終選考に二作残せなかったとのこと。

 後日、『昆布干し』でどこかへ応募してみては、といわれていた。そこで、大幅に手を加えて小諸・藤村文学賞に応募したのである。喜んでもらえたのには、そんなわけがあった。

 今回も北海道新聞に採り上げられ、母が嬉しい悲鳴を上げた。しばらく故郷へ帰っていないだけに、ほっとする気持ちがあった。

 さらに嬉しいことがあった。平成十八年九月十八日の産経新聞の読書欄に『ベスト・エッセイ集』が採り上げられた。六十編の収録作品中、表題作となった『カマキリの雪予想』と『昆布干しの夏』の二作が書評で触れられていた。私には受賞の喜びとは違う、格別の感慨があった。妻も心から喜んだ。

 エッセイを書き始めて七年になる。妻の病状は一進一退で、入退院を繰り返している。妻の病気がなければ、エッセイを書く今の自分もいなかった。私は報われる思いを静かに噛み締めながら、もっといいものを書きたい、と以前にも増して強く思っている。

                  平成十九年三月 春分  小 山 次 男