Coffee Break Essay



   『婆さんのもてなし』




元旦から一泊で奥秩父の温泉へ行ってきた。

ひと山越えて道が途切れたところに、その古い宿はあった。
正確に言うと温泉ではなく、鉱泉(冷水)である。

年が押し迫って、片っ端から電話して、やっと空いている宿を見つけた。
正月に空いているのが多少不安だった。

予感は的中した。

送迎がないので駅からタクシーで行ったのだが、
宿についた途端、このまま引き返せないものか、という考えが過(よ)ぎった。
値段だけは、通常の旅館並の高さ。ヤラレタ! と思った。

部屋に案内される途中で目にした共同洗面所とトイレは、
昭和四十年代フォークソング時代のアパートを連想させた。
部屋の扉は木製の引戸、窓も一箇所はサッシで、
あとの二つは昔ながらの木枠であった。
古いのは一向にかまわないのだが、
薄暗いなと見上げた照明具の中に虫がたくさん入っていたり、
床がやたら軋(きし)むのには閉口した。

部屋に通されしばらくしても、寒くて誰も着替えようとしない。
コートも脱げずに、そのまま炬燵に入り込んで固まってしまった。
ふた間の広い部屋に、ポータブルの石油ストーブが一つだけ。
いつまで経っても吐く息は白いままであった。

婆さんがたったひとりでやっている宿であった。
訊くと、その日の宿泊は私たちだけである。
気楽でいいなあというより先に、やっぱりあなァと思った。

夕食に、ガスコンロを運んできたので猪鍋かと期待した。
その横には立派な椎茸が使いこんだ笊(ざる)に盛大に盛られていた。
とうとうその後は何も出てこなかった。椎茸焼きだという。
それがメインの夕食であった。

焼けた椎茸にレモンを絞って食べる、ただそれだけ。
こういう料理を食べさせるところを、他に知らない。
こんなに椎茸だけを食べたことが、かつてあったろうか。
複雑な気持ちではあったが、これは贅沢なことなのかも知れないと思った。
そう自分に言い聞かせた。椎茸は自家製というだけあって確かに美味い。

正月だからとお節料理も作ってくれていた。
偏食の娘が食べられるものは僅(わず)かである。
それを妻と私でカバーしたのだが、それでも食べ残しが出る。
胃下垂で少食の義母は自分の分を食べるので精一杯。

「あらー、味噌汁、残っているじゃない。黒豆、大変なのよここまで煮るの」

美味しかったけれど食べられなかった、は通じないのだ。
残したものは片づけないで、置いて行く。
勿体(もったい)ないから後で食べなさいと。

全てが手作だという。味噌汁の味噌も、漬物も梅干も。味はいい。
でも量が多くて食べ切れない。

夕食が終わって、伸びているところに湯気の立つお汁粉がきた。
気が遠くなった。絶対に無理だと思ったが、入った。
甘さとはこんなに素直なものだったのか、という味だった。

二時間おきに風呂で温まらなければ、やっていられない寒さである。
テレビも八三年製というシールが張ってある代物で、画像が悪い。
久しぶりにテレビの頭を叩いて調整した。
百円で三十分、有料なのである。
切れるたび、ため息に近い沈黙が訪れた。
静かな自然の中に来て、騒々しい正月番組などどうでもよかったのだが、
寒さを紛すためには、そのガヤガヤが必要であった。

朝起きると窓が白い。開けて見ると白一色の世界。
予期せぬ雪景色である。
右も左も後ろも、手の届かんばかりの距離に山が迫っている。
木々の梢の雪に朝日が当たって、息を呑むほどの神々しさである。
まだ朝日は、我々のところまでは届いていない。
頭上だけが輝いている。空は抜けるような快晴である。

野鳥が樹間を飛び交い、そのたびに砂時計のようにサラーッと雪が落ちる。
宿の前の木に笊がぶら下がっていた。
婆さんが餌を入れているようで、ひっきりなしに小さな鳥たちがやって来る。
寒さを忘れて見入ってしまった。

実は、朝七時過ぎ、婆さんの足音に急(せ)き立てられるように起こされたのだ。

「見て下さいよ、綺麗でしょ」と開かないかと思っていた雨戸を開けてくれた。
婆さんはこの景色を我々に見せたくて、階下で待っていたに違いない。
とうとう我慢できずに上がってきたのだ。

まもなく我々を風呂へと追い立てた。命令形である。
これが婆さんのペースなのだ。
我々のいない間に蒲団を上げ、朝食の用意をする。
夕食のときもそうだった。

風呂から出たのを見計らって、温かな朝食が上がってきた。
長年寮の賄いをやっている義母は、
この宿の食事が並々ならぬものであることを理解していた。
それは懐かしい味であり、温かで優しいものであった。
かつての日本人が、当たり前に食べていた料理である。

婆さんの旦那はいつ死んだのだろう。
婆さんはいくつでここに嫁いできたのか。
戦乱も潜り抜けて来たに違いない。
子供達は、みんなここを出て行ったのだろう。
どこで何をしている。正月なのに誰も来ないのか。
気がつけば、婆さんとは会話らしい会話をしていなかった。

蒲団の上げ下げは重労働である。
これだけの食事をひとりで作る労力は、想像に難い。
出来合いといったものがひとつもないのだから。
お汁粉ひとつ作るのに、どれほどの時間と気遣いを要していることか。

ズボンにドテラ姿、女将とは言い難い老女。七十は優に超しているだろう。

丹精込めて料理を作った、という自負があるから怒る。
婆さんなりに精一杯お客をもてなしているのだろうが、わかってもらえない。
特に、今の人間には。
余程、物好きでない限り、リピーターはいに違いない。

宿のすぐ脇に小川が流れていた。
小川からは、貝殻の化石が時々出てくると教えてくれた。
初夏には、蛍の乱舞が見られるに違いない。
帰り際、玄関のゲタ箱の上に無造作に置いてあったカリンを、
喉に効くからといって持たせてくれた。
みやげ物ひとつ置いてあるわけではない飾り気のない宿に、婆さんの面影を見た。

婆さんはあとどのぐらいこの宿をやって行けるのだろうか。
そんなことを心配しながら宿を後にした。

「婆さん、また来たよ」と訪ねてみたい、そんな気まぐれな思いつきが湧いていた。

                      平成十五年三月  小 山 次 男