Coffee Break Essay



 『「警視総監賞」までの道程』 ―『二〇〇五年版ベスト・エッセイ集』収録に寄せて―



 同人誌『随筆春秋』二十二号(二〇〇四年九月刊)に掲載した拙作、『警視総監賞』が、『二〇〇五年版ベスト・エッセイ集』(文藝春秋刊)に選出・収録されたことは、望外の喜びである。

 私が始めてこの『ベスト・エッセイ集』を手にしたのは、東京駅前に八重洲ブックセンターができたばかりのころで、そこで初めて購入した本が、『八三年版ベスト・エッセイ集 耳ぶくろ』である。確か、一九八六年、私が二十六歳のときだった。

 それから五、六年続けてこのエッセイ集を読んでいた。そのころの私は、日記しか書いたことがなかったのだが、こういう本に自分の書いたものが載る日が来ればいいな、と漠然と考えていた。ただ、このエッセイ集に収録されるためには、越えられそうにない大きなハードルがいくつもあった。

 まず、自分の書いたものが、新聞や雑誌などに掲載されなければならない。その掲載されたものを自薦、または他薦で文藝春秋に応募し、そこで二次にわたる予備選考が行われる。絞られた二〇〇篇程度の作品が、今度は日本エッセイスト・クラブによる最終選考にかけられ、最終的に六十篇前後の作品が収録作となる。長い道程である。まず新聞、雑誌等に載せることが、とんでもなく高いハードルだった。

 私がエッセイを書き出したのは、二〇〇〇年のことである。四十歳になったのを機に、「人生かれこれ四十周年記念」という企画を自作自演で始めたのが発端だった。自分が中年真っ只中に突入して行く、もう若くはない、という自棄的な気分と、何か書いてみたい、書き残しておかなければどんどん霞んでしまう、という思いがあった。だが、何をどう書けばいいのか皆目検討がつかない。小説を書くなどという大それたことは無理である。手っ取り早かったのがエッセイであった。

 そこで文庫本になっていた『ベスト・エッセイ集』を、片っ端から読み始めた。このエッセイ集のスタートの八三年版からの十四冊、八五〇篇ほどのエッセイを、一気に読んだ。どう書けばエッセイになるか、それを知りたかったのだ。

 それからコツコツと自分のペースで書き始めた。一つの作文に二ヶ月、三ヶ月と時間をかけ、自分が納得するまで書き続けた。サラリーマン生活の中での作業である。寝る間際の僅かな時間、食卓テーブルにノートパソコンを広げ、毎日少しずつ書いていった。これがパソコンではなく、原稿用紙だったとしたら、またインターネットが普及していなかったとしたら、ここまでは続けられなかった。そうして書き綴ったものが次第に手元に溜まってきた。

 そのうち、自分の書いているものが、本当にエッセイとして世間一般に通用するのだろうか、という疑念が湧いてきた。誰かに「それでいい、その調子で書いていきなさい」と背中を押してもらいたかったのである。エッセイを書き初めて二年目、公募雑誌で見つけた同人誌が募集するエッセイに初めて応募する。応募作『祝電』で、「第八回随筆春秋賞」最優秀賞(二〇〇三年)を頂く。

 この賞を機に、随筆春秋の会員となり、エッセイの添削指導を受けながら、年に二回、同人誌に作品を発表する機会を得る。翌二〇〇四年、『昆布干しの夏』で「第十回小諸・藤村文学賞」(長野県小諸市主催)優秀賞を受賞。同じくこの年、同人誌に発表した『警視総監賞』で、今回の収録となった。

 この『警視総監賞』が出来上がるまでには、紆余曲折があった。

 私が添削指導を受けている随筆春秋の原稿枚数には、四百字詰換算で五枚以内という制約がある。最初、私の原稿は三十五枚で、タイトルも『平成の朝』というものだった。そこで、スタッフの方に一読して頂いて、感想だけでも聞かせてもらえないものかと、事務局に原稿を送っていた。

 ところが原稿を読んだスタッフのIさん(舞台演出・脚本家)が、私の原稿を脚本家のF先生に披瀝したのである。このF先生は、人気テレビドラマの脚本を何本も書かれている方だった。Iさんは月に一度、数人の仲間と共に先生の自宅で脚本の指導を受けていた。

「これ、もう少し膨らませて書き直すと、良い脚本になりますよ」と布勢先生がいっていたという。数日後、自身の誕生会の席上、先生が私のエッセイを取り上げ、その内容をみんなの前で披露していたとも教えてもらった。

「サスペンスコメディー(この作品がそういうジャンルらしい)は、なかなか書ける人がいないですから、挑戦してみてはいかがですか」

 という内容のメールをIさんから頂いた。さらに、F先生の勉強会に一緒に参加しないかというお誘いを受けたのだ。ただそのためには、半年間の脚本家養成講座を受講してからだという。

 こんな話は、めったにないチャンスである。門下生になりたくても機会が得られず、頑張っても門前払いをくらうのが関の山、という厳しい世界である。そこへお誘いを頂いたのだから仰天した。これで私が独身なら、一も二もなく飛び込んでいたかも知れない。だが、私は、この時すでに四十四歳。サラリーマンである。なにより扶養すべき妻子がいた。もう無茶のできる年齢ではなかった。悩んだ末、涙を飲んで鄭重にお断りした。

 だが、Iさんには熱意があった。「それなら私が教えます」という申し出で、紹介された三冊の本と専門雑誌を読みながら、数ヵ月後、ペラ(二百字詰原稿用紙)で六〇枚、二時間ドラマに相当する脚本(らしきもの)を書き上げた。初めてにしては良く書けている、というIさんの言葉だったが、原稿はIさんの筆で真っ赤に染まっていた。結局、全面書き直しである。

「大勢の人がこの時点で脱落するのだ。ここで踏ん張らなければ」と数日間は原稿に向った。だが、私の中からは何も出てこなかった。それが私の限界であった。

 その年の秋、私は同人誌に掲載する原稿に苦慮していた。やっとの思いで提出した原稿に、Iさんから物言い≠ェついた。載せるのなら『平成の朝』を出しなさい、十枚までなら受け付けますという。三十五枚を十枚にするのは、今の私の力では無理だというと、あなたなら出来ます、まだ一ヶ月あるんだから、と有無を言わせぬ叱咤激励が返って来た。それから再び奮闘が始まった。

 一ヶ月後、身を斬る思いで原稿を削り、何とか体裁を整えた。その結果、『平成の朝』ではしっくり来なくなり、『警視総監賞』と改めたのである。

 『警視総監賞』は、Iさんの叱咤激励の賜物である。短期間ではあったが、シナリオに触れたことで、私の視野がグンと広がった。そして何より、原稿を削る作業を通して、書くことに多少は自信が持てるようになった。

 今回の『ベスト・エッセイ集』への収録は、平成元年に警視総監賞をもらったときより、数段嬉しいものだった。それを最も喜んでくれたのは、ほかならぬIさんである。いくら感謝しても、し切れない思いでいる。

                   平成十七年九月 白露  小 山 次 男