Coffee Break Essay




 「米良家の歴史を書き終えて」


        ―『肥後藩参百石 米良家』発刊〜 とても長いあとがき ―

 (四)

 この校正作業の中で、何度、本文を読み返したことだろう。私も佐藤誠氏もサラリーマン生活のかたわらの作業である。当初の仕上がり予定が平成二十四年秋で、実際に本書が刷り上がったのは、翌年の六月である。八、九カ月近くもオーバーしたことになる。

「……一年三カ月かかった。久し振りに、感慨無量」

 別府氏がブログの中でつぶやいていた。

 後日、別府氏が作成したプレス向けの文章を目にし、感謝の思いを新たにした。

「(略)資料蒐集や現地調査、執筆に八年をかけた本書は、まずは、九州・熊本を出自とし変転を経た後に北海道を居住の地とする一家系の話ではありますが、それぞれがどのような時代に生きたのかが明らかにされる追跡過程に立ち会う時、『歴史』が生き生きと捉え返される想いを持ちます。それは何より、四百年間の血筋をつなごうとする子孫の――類例のないほどの、と申し上げたい――情熱がもたらすものであり、こうした営為こそが『歴史』をさらに豊かにしていく基礎となるのではないかと考え、一家譜を超えた歴史書として広く世に問おうとする次第です」

 本書は、熊本の眞藤國雄氏と東京の佐藤誠氏と私の合作である。眞藤氏から産地直送ともいえる素材の提供を受け、それを佐藤氏が素材の味を損なうことなく調理(翻刻と現代語訳)した。私はそれを盛りつけたに過ぎない。他人の褌(ふんどし)で相撲を取ったような、そんな思いが私の胸の片隅にずっと貼り付いていた。実際、二人のすぐれた史家と編集者の伴走なしには、本書は成立しなかった。別府氏の一文は、私のわだかまりを台風一過のごとく払拭してくれた。

 だが、本書には一つの大きな欠点がある。四百年に及ぶ家系の歴史を時系列に沿って下ってくる中で、現代に近づくほど内容が充実してくるのだ。何人もの年寄りが、親や祖父母から聞いた話として語る内容が資料を裏付け、より鮮明になってくる。辛く厳しい体験が、リアリティーを伴ってくるのだ。本書ではそれが明治以降、一気に顕在化してくる。

 言い方を変えれば、明治期以前は物語性に乏しく退屈なのである。しかも本書は、米良姓の起源を探るため、十二世紀の源平合戦以前、熊野水軍あたりの記述から始めている。極力簡潔に終わらせることを心がけたが、本書を俯瞰(ふかん)すると、その形が歪(いびつ)になっていることは自明である。

 こういった歴史物では仕方のないことなのだろうが、書き出しの数ページで読者の心を鷲づかみにすることに失敗している。致命的な欠点である。しかも難しい漢字の混入量が多く、本書を贈呈された人のどれほどが、最後まで読むことができたのだろうか。そんな思いが頭をよぎる。

 私は本書が発刊されて以降、毎日のようにネットをチェックしている。どこかの新聞社が、「書評」欄で取り上げてくれてはいないだろうか、という思いからである。そんな中、佐藤誠氏のお知り合いの田中光郎氏のブログに行き当たった。そこには次のように記されていた。

「近藤健・佐藤誠両氏の共著で、本文が近藤氏、史料編が主として佐藤氏の手になる。

 内容は近藤氏の外祖母の一族にまつわるものである。詳しくは本書によっていただきたいが、近藤健氏の大叔父米良周策氏(メラ爺)の祖先が、赤穂義士・堀部弥兵衛の介錯をした人物だった。このことを書いたエッセイを目にした、知る人ぞ知る義士研究家の佐藤氏が連絡と取ったことから、米良家の歴史をまとめるというプロジェクトがスタートしたのである。

 完成品がこの大冊。本文もさることながら、史料・歴代事跡・年表と、これだけ充実した家史は滅多にないだろう。

 私としては近世の部に関心があるのだが、読んで断然面白いのは近代の部である。神風連の乱の乱から西南戦争、屯田兵の辛苦からシベリア抑留。ドラマでもなかなかこんなに筋立てはできない。後裔・近藤氏がその波乱の歴史に肉薄しようとする姿が、また素晴らしい。最後に明かされるレイテ戦の真実には脱帽。これは、読者の楽しみのために種明かしをしないでおくが、半面識もないメラ爺が愛おしく思えるに違いない。

 御一家の弥栄を祈念して、御紹介申し上げる」

 その後、田中氏は佐藤誠氏に送ったメールの中で、次のように述べられている。

「『米良家』の分量のおよそ半分をしめる史料編、その価値は史学的には高いのですが、この本の生命は近藤さんのメラ爺への想いだろうと思います。佐藤さんに共著者として名を連ねることを要請したのも、これをまとめたいという強い気持ちからくる感謝の現れです」

 正鵠(せいこく)を射(い)た文章とは、まさにこのことだと思った。その切り口の鋭さに、正直「怖い」という感情を抱いた。この田中氏の一文によって、本書は昇華されたといっても過言ではない。これほど深く本書を読んでくれたことに目を瞠(みは)った。同時に、感謝の思いが胸に満ち溢れ、長年の努力がこの一文で報われたように感じた。

 どんな書評よりもありがたいと思った。 了

                 平成二十五年八月  小 山 次 男