Coffee Break Essay




 「米良家の歴史を書き終えて」


        ―『肥後藩参百石 米良家』発刊〜 とても長いあとがき ―

 (三)

 校正開始当初は、本文中の元号表記に対する西暦併記の配分のチェックが煩雑だった。南北朝時代の元号表記にも苦慮した。文中での参考文献の引用方法の統一や、史料、写真などを本文のどに位置に挿入するか、それらのキャプション(説明文)の表現の仕方など、初めての作業に戸惑った。また、史料編へ掲載する史料や絵図などを所有する団体や個人への転載許可願いの発送など、煩雑で時間のかかる作業を同時進行で行った。

 細かい表現では、「御目付」と「御目附」、「時」と「とき」、「頃」と「ころ」などの混在の処理。「勤皇」なのか「勤王」か。「太宰」と「大宰」の区別、「連隊」は「聯隊」とすべきだなど、多岐にわたる表記の揺れを補正し、それが一転、二転そして三転した。文中の表記で、当初「知らず識らずの内に」としていたものが、表現が硬いので「知らず知らずのうちに」に訂正を促され、結局「知らずしらずのうちに」に落ち着いた。そんな微細な調整が重なり、ゴールの見えない果てしない作業が延々と続いた。

 また「一〇〇石」は「百石」、「百五十石」は「一五〇石」へ訂正。「明治二二年」は「明治二十二年」に、「十五番地」ではなく「一五番地」など、数詞の処理が各所にあった。中でも最も大変だったのが、漢字の問題だった。

 本書は、歴史編と史料編の二部構成からなり、歴史編は私が、史料編は佐藤誠氏が担当している。どこまでを新漢字(常用漢字)で表現するか、という問題があった。やがてそれは旧漢字(正字)をどこまで許容するかという問題に変わった。

 当初我々は、せめて史料編だけは原文に忠実でありたいと思っていた。だが、史料の中でも新漢字と旧漢字の混在があった。さらに俗字や異体字、崩し字などが散見された。たとえば人名では「龜雄」と「亀雄」、「齋藤」と「斎藤」、地名では「小國」と「小国」などの混在である。そのまま忠実に表現すると、誤植ではないかとの疑念を読者に与えかねない。かといって旧漢字の全てを新漢字で表記するのにも大きな抵抗があった。たとえば「淨體院」を「浄体院」、「瑞嶽院」を「瑞岳院」としては、全く別物のイメージになってしまう。

 編集長とのやり取りの中で、せめて史料編の人名と地名だけは旧漢字のままにしたいという妥協案で進めたが、最終校正の段階で全て新漢字に置き換えた。読者を置き去りにはできない、という思いが強くはたらいた。ルビを多用したのもそんな考えからである。ただ、現存者の表記だけは旧漢字などを許容した。「眞藤國雄」氏や「石瀧」氏、「久」氏などだ。また、旧漢字が一般的に使用されている「坂本龍馬」、「文藝春秋」、「萬昌院」などは、そのままとした。表記の揺れの修正、旧漢字と新漢字のせめぎ合いのほかにもう一つ、「行送り」の問題があった。

 会話文の頭にくる起しのかぎ(「)は、行頭から始まるものと思っていたし、またそう習ってきた(見かけ上半角空いて見える)。しかし、これは活版印刷時代の踏襲で、現在のコンピュータ組み版では、行の頭に一文字空きを入れて起しのかぎ(「)を置くように自動的に制御されているというのだ。文春文庫など、いまだに活版印刷時代の「見かけ」を踏襲している出版社もあるが、今では行頭に一文字空きを入れるのが一般的だという。

 これにはさすがの私も大混乱をきたした。無理にお願いし、起しのかぎ(「)を半角空きの行頭始まりにしてもらっていたが、こちらも二転、三転を経、現代の常識に従うことで納得し、編集長に一任した。

 「行送り」ではもう一つ、史料編での「欠字(闕字)(けつじ)」、「平出(へいしゅつ)」という問題があった。欠字とは「文章中に、天皇・貴人の名などを書く時、敬意を表すため、そのすぐ上を一字か二字分あけて書くこと」。平出は、「文中に高貴な人の名や称号を書く時、敬意を表すため、行を改めて前の行と同じ高さにその文字を書くこと」とある(いずれも『広辞苑』)。

 「欠字」、「平出」をそのまま表現すると、文中の文字が突然欠落したように見え、また、文の途中での唐突な改行があったりし、読者に「何だ、これは」という印象を与えかねない。見た目の体裁を整えたくなるところである。だが、実はそこに日本人の「畏敬の念」や「奥ゆかしさ」という独特の感情が隠されている。

「欠字、平出は敬意を表す当時の我が国のしきたりなのです。逆に『どうしてそうなっているのか』と見た人が疑問に思ってくれることが大切なのだと私は考えます」

 凡例で断ってベタ組みにする方法もあったが、佐藤誠氏の歴史に向き合う真摯(しんし)な姿勢を尊重し、本書では「欠字」、「平出」は原文のまま表記した。

 さらに、最後まで苦慮したのが個人情報の問題だった。現代の米良家の人々の誕生日や住居表示への配慮。また、家族関係をどこまで具体的に表現するか。このデリケートな問題に思い悩む日々が続いた。現実をできるだけ正確に伝えたいという使命にも似た思いと、個人情報、プライバシーへの配慮のせめぎあいである。

 かくして初祖を含めた十七代、三六四ページ(前付を含めた総ページ数)にわたる本書は完成した。四百字詰原稿用紙に換算すると、単純計算で八〇〇枚ほどになる。史料の蒐集(しゅうしゅう)や現地調査を含めると、八年の歳月を費やしたことになる。

 私は平成七年から一年間、通信教育で校正の勉強をしたことがある。三十五歳のことなのだが、今回このときの勉強が大いに役立った。 (つづく)