Coffee Break Essay



 
 
「米良家の歴史を書き終えて」

        ―『肥後藩参百石 米良家』発刊〜 とても長いあとがき ―

 (二)

 本書『肥後藩参百石 米良家』は、私の祖母(母方)の家系を四百年に遡って調べ上げたものである。祖母の家系は米良家といい、熊本藩の中級士族であった。

 初祖米良吉兵衛は初代熊本藩主細川忠利の代に召し出される。初代元亀(一般的呼称は「もとひさ」)の時にたびたび加増され、三百石の知行を拝領する。二代実専(同「さねたか」。通称は勘助)が参勤交代のお供で上京した折、赤穂事件に遭遇し、堀部弥兵衛の介錯を務める。三代実高(同「さねたか」)、四代勘兵衛を経、五代茂十郎(同「もじゅうろう」)のときに知行返上(召し上げ)という大事件が起こる。「不本心様子につき」と記され、原因は詳(つまび)らかではない。

 六代実俊(同「さねとし」)は、隠居の勘兵衛に与えられていた知行、五人扶持(ぶち)を一五〇石にまで回復させる。七代亀之進を経て八代実明(同「さねあき」)の代は幕末の動乱期である。ペリーの来航を受け、相模湾の警備、二度の長州征討への従軍。その後京都へ出兵した折、徳川幕府の終焉となる大政奉還に遭遇する。実明の家督を相続した弟九代左七郎は西南戦争で戦死。その前年に左七郎から家督を譲られていた実明の長男十代亀雄は、熊本で起こった神風連の乱で自刃している。

 十一代四郎次(しろうじ)は、亀雄の弟で屯田兵に志願し渡道し、札幌の篠路兵村に入植している。この四郎次が、私の曾祖父に当たる。十二代繁実は太平洋戦争でシベリア抑留死。その弟である十三代周策は、海軍に志願するもほどなく終戦を迎え、命を拾って帰還する。周策は今年八十九歳、米良家現当主で、私の祖母の弟、つまり大叔父に当たる。

 また、吉兵衛を初祖としたのは、初代との間にグレーゾーンがあったためである。代数の表記は、米良家が熊本藩庁へ提出している先祖の由緒書き、いわゆる「先祖附(せんぞづけ)」の代数表記に倣(なら)った。周策には曾孫までいるので、米良家は初祖を含め、十七代の家系となる。以上が、本書のあらましである。

 本書は赤穂事件で堀部弥兵衛の介錯人を務めた家系が、その後どのような変遷をたどって今日に至ったかを謳(うた)いにしている。

 私はこの本が、きちんとした形となって世間に出回ることを想定していなかった。大名家ならまだしも、たかだか三百石の一家系の話に誰が興味を示すか。そんなものを読んで何が面白い、という思いがあった。せいぜい親戚やごく親しい友人に配る程度の、同人誌に毛が生えたような雑誌のイメージしか持っていなかった。

 ところが福岡地方史研究会会長で福本日南研究家の石瀧豊美氏を通じて、福岡の出版社(花乱社)とご縁が結ばれた。拙作を一読された花乱社編集長の別府大悟氏から、出版の話が持ちかけられた。私は前述の理由から一旦はお断りしたのだが、別府氏の強い熱意に背中を押された。何度かのメールのやり取りの最後に、次のような一文をもらった。

「(略)『米良家の歴史』の文章には、抑えた筆致の中に何かただならぬ切迫の気配が感じられます。だからこそ、どのような本に仕上がるのか、私自身が手掛けたいと願ってきました。あからさまに申し上げれば、原稿を印刷物=本にするだけなら、そこそこの印刷所ならできることですし、多少経験のある編集者が関われば、もう少し体裁の良いものができるはずですが、近藤さんの文章の息遣いまで聴き取りつつ、隅々にまで神経を配った一冊の『本』として仕上げられる編集者は、おそらくそれほど多くはないと信じます。(略)月並みですが、最後は『ご縁』があるかどうかだと思います」

 こんな思いを告げられて、断る理由がどこにあろう。かくして、東京、室蘭(平成二十五年三月から札幌)、福岡を結ぶ、まさに日本を縦断する連繋作業が始まった。

 福岡から北海道の私のもとへ送られてくるゲラは、東京の佐藤誠氏を経由して再び福岡に戻される。これをワンクールとして、一年三カ月の校正作業の中で、全体を通して六回の校正が行われた。ただ、本書の全体像がゲラとなって姿を現すまでに半年以上を要し、それまでは部分ごとに校正紙が送られて来た。第六校のゲラを送り終え、ホッとしたのもつかの間、印刷所から出版社に上がってきたゲラ(「念校」)の最終確認が待っていた。

 この校正作業の中、熊本の史家眞藤國雄氏から米良家に関する新たな史料が何度かもたらされた。ご先祖様から盛り込むように仕向けていると感じ、校正紙を出し終えた後、追いかけるようにメールで送った原稿もあった。最終校にもそんな滑り込みがあった。動き始めた電車のドアを無理やりこじ開け、飛び乗るようなきわどい作業であった。出版社には迷惑なことだろうが、嫌な顔ひとつせず快く引き受けてくれたことに心から感謝した。実際に大変だったのは、編集長を陰で支えるスタッフの宇野道子さんだったのかも知れない。

 エッセイの校正作業は、これまでに幾度となく経験している。だが、ノンフィクション、しかも歴史物の校正は初めてだった。想像以上の作業だった。校正の途中、こんなことはもう二度とゴメンだと思った。ぬかるんだ田んぼの中、百メートルの徒競走を全力で行うようなもので、体力、気力、精神力の全てを消耗した。ただ、正誤表だけは入れたくない、後世に悔恨を残したくない、そんな思いで作業に臨んだ。それがご先祖様への礼儀だろうと考えていた。

 直系でもない私が、なぜこれほどまでに米良家の歴史を追いかけるのだろう。そんな思いが時折頭を掠めた。だが、いつしか、この私が「ご先祖様のご指名」を受けたのだと思うようになっていた。そう考えなければ説明がつかなかった。古文書の行間から漏れてくる声にならない声に耳を澄まし、一人ひとりに光を当ててやる、そんな一念が私を突き動かしていた。 (つづく)