Coffee Break Essay



 
 「米良家の歴史を書き終えて」


        ―『肥後藩参百石 米良家』発刊〜 とても長いあとがき ―

 (一)

 私が敬愛する作家に佐藤愛子先生がいる。

 夏目漱石、芥川龍之介、川端康成は、なんなく呼び捨てにできる。現在、現役で活躍中の渡辺淳一、五木寛之、瀬戸内寂聴、村上春樹らにしても全く抵抗はない。だが、この佐藤愛子先生だけはそれができない。年に二度、所属している同人誌仲間と世田谷のご自宅を訪ね、直接文章指導を受けていたからだ。二年前に東京を離れてからは、しばらくご無沙汰をしていたが、この五月にたまたまご自宅を訪ねる機会があり、近作のエッセイに対する微細に入る講評をいただいた。先生とは平成十七年からのお付き合いなので、もう八年になる。

 この佐藤愛子先生の代表作に『血脈』がある。平成十二年に第四十八回菊池寛賞を受賞したこの作品、先生が六十五歳で書き始め、十二年の歳月をかけて完成させたものである。先生は今年、九十歳になる。

 この作品は「佐藤家の荒ぶる血」を鎮めた渾身の大作である。その「あとがき」がまた秀逸である。長い引用になるが、ご紹介する。

「……遠藤周作さんが『深い河』だったか『死海のほとり』だったかおぼろなのだが、とにかく大作を外国の街のどこかのホテルで書き上げた時のこと。最後の一行を書くとペンを置いて机を離れ、窓辺へ行って夜更けの街を見下ろして感慨に浸ったという記述を何かで読んだことがある。その時、私は彼の胸のうちに作者のほかには誰にもわからない充足感、虚脱感、解放感のようなものが湧き出てきたであろうことを想い、作家の至福とはまさにこういう時であろうと羨ましく思ったのだった。

 しかしこの私は『血脈』の最後を書き上げると、アホウのようになって暫く庭を眺めているうちに何カ月か前に北海道から送られてきたジャガ薯から芽が出ていたことを思い出し、前から気になっていたそれを何とかせねば、と立ち上がってコロッケを作った。コロッケ十五個で、芽の出た薯は完全に処理出来た。『血脈』を十二年かけて書き上げた緊張と疲れはコロッケを作ったことで拭い去られたのであった」

 佐藤先生の人となりを見事に現した一文である。私はこの作品を読み終えたとき、その内容の圧倒的な重さに、目もくらむばかりの疲労を覚えた。同時に、言葉にならない深い感銘に打たれ、痺れた身体をしばらく動かせなかった。

 先生はこの三四〇〇枚、一八〇〇ページの大作を、わずか四ページたらずの「あとがき」で見事に昇華させている。

 何年か前にご自宅を訪ねた折、思い切ってそのことをお話したことがある。普段なら快活にお笑いになる先生が、言葉少なに笑顔でニヤリとされた。その笑顔は、私には特別なもののように思えた。だがその直後にご自宅の電話が鳴ったので、この件はそれでお仕舞いになってしまった。

 今回、『肥後藩参百石 米良家』の共著者の佐藤誠氏から、本書を書き終えた感想を書いてみませんか、というお誘いがあった。さて、何を糸口に書き始めようかと思いながら、手にしたのが『血脈』だった。そして、久しぶりに「あとがき」を再読したのだった。

 その翌日、にわかに信じ難いことが起こった。数日前に拙作を贈呈していた佐藤愛子先生から、お礼の葉書が舞い込んだのだ。現在、「晩鐘」(昨年二月から文芸誌『オール読物』に連載中の小説)の追い込みにかかっており、本書をまだ読んでいないとしながら、本を手にした感想が簡潔に記されていた。

「……ずっしりと手応えのある重みに、初祖吉兵衛氏以降の歴史の重みを感じました」

 佐藤先生は、お世辞を言う人ではない。良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりと仰られる。お忙しい中、拙作をパラパラとめくった正直な感想をいただけただけで私は恐縮し、大汗をかいた。それだけで十分に嬉しかったのだ。葉書には続きがあった。

「八年ものご努力の成果、おめでとうございます。『血脈』を書き上げた時の虚脱感を思い出しました。あの時と同じ感慨に浸っておられることでしょう」

 と結ばれていた。私は言葉を失った。大袈裟なもの言いを許してもらえるなら、このとき、私は佐藤愛子先生と魂の交わりを覚えたのである。

 拙作は、親類や友人、知人と数多くの人に贈呈させていただいた。だが、その贈呈リストに、佐藤先生のお名前を入れていなかった。ただでさえ常日頃、数多くの本が送られてくるに違いない。文芸作品でもない本書を送りつけられても迷惑な話、コメントのしようがないだろうと考えてのことだった。

 その後、本を贈呈した複数の方から、いかなる本であれ、文書指導を受けていながらお贈りしないのは、いかがなものか。ましてや初めての著作なのだからなどと言われ、そういうものなのかと思いながら、渋々後からお贈りしていたのだった。

 本書を書き終えたとき、こんな私ですら得も言えぬ達成感に満たされた。走り出して、海に向かって大声で叫びたい衝動に駆られた。満足感と疲労が渾然一体となる中、漠然と赤穂義士に思いを巡らせていた。

 主君浅野内匠頭の仇を討ち果たし、本懐を遂げた四十七士の達成感は、いかばかりのものだったか。おそらく噴出した脳内モルヒネがそれぞれの頭の中に充満し、その激しい高揚が疲労感を圧倒的に凌駕していただろう。そして一刻も早く殿の墓前に馳せ参じ、腹を掻き切って死んでしまいたい、そんな激烈な達成感だったはずだ。

 広い北海道とはいえ、札幌には海もなく、気兼ねなく叫ぶことのできる場所も近所にはない。豪快に祝杯を挙げる相手もいなかった。

 そこで私は、近頃めっきり見なくなった韓国垢(あか)すりの店を、苦心の末ネットで探し出し出かけた。中から出てきた女性は、昭和時代のようなパーマ頭の韓国のオバサンだった。そのオバサンにお願いし、背中の皮がめくれるほど激しく背中を擦ってもらった。ひどい肩こりで、肩から背中、腰にかけてカブトムシのようにガチガチになっていたのだ。下手なマッサージより、垢すりの方が肩こりに効くことを知っていた。

 たどたどしい日本語のオバサンに背中を擦ってもらいながら、もしかして身の置き場のないような私のこの思いは、達成感や虚脱感、解放感などからくるものではなく、単にこのひどい肩こりが原因ではないのか。髪振り乱す韓国のオバサンの手により、私のやるせない気持ちはにわかに発散されていった。まさに一皮剥(む)けたといった清々しい気分で、店を後にしたのであった。  (つづく)