Coffee Break Essay


 

  『メラ爺』




 メラ爺(姓が米良)は、今年八十三歳である。亡祖母の弟、つまり私の大叔父にあたる。北海道の小さな町役場を定年退職してからは、山の監視員などをする傍ら、悠々自適の生活を送っていた。

 爺は人並みはずれた話術とユニークな性質で、周りを大いに楽しませてくれる。

 爺が若いころ、とある温泉へ行った。風呂の洗い場に珍しくも二人の若いアメリカ人がいた。湯船につかり、身体を流す二人の大きな背中を眺めていると、椅子の隙間から垂れ下がる異様なものが飛び込んできた。

「さすがはガイジン、長いのなんのっておめェ。椅子に座ってだどォ、先っぽが床にとどいてンだもンなァ。イヤー、たまげだァ」

 感心する爺に、悪戯心が沸き起こった。温泉の噴き出し口から二つの手桶に熱いお湯を汲んだ。それを二人の背後からそっと流し、爺は湯船に沈んでワニになった。床を伝った熱湯が二人の先端に触れた。

「ガイジンだもの、椅子から飛び上がって叫んだもンなァ。ワーオゥー」

 二人の叫び声を真似る爺に、周りが笑い転げた。父の告別式が一段落した席での話である。家の中がパッと明るくなった。

 爺はいつも突然やってくる。田舎なので鍵をかける習慣がない。私が中学生のころ、

「オイ! キョーコ、小樽の姉に会ってきたどォ」

 ドタドタと興奮気味に入ってきた爺が、台所の母に叫んだ。

「すっかりババアだ。口は相変わらずでよ、イヤー、まいったァ」

「自分だってジジイだべさ……いつから会ってなかったの」

 といいながら出てきた母に、

「そうだな、最後に会ったのは……満州事変の三、四年後だったがなァ。ざっと四十年つうどごだな」

 母も私も目を丸くした。

「中国残留孤児だってそんなに長ぐないよ、四十年ったらひっどいしょ。同じ道内なのに」

 普段は威張っている爺も、隣町にいる三歳上の姉、キク婆にはまったく頭が上がらない。ましてや十九歳も離れた長姉は、母親以上に口うるさく疎ましい存在だった。それが四十年となった。

 私が結婚してからは、家族で帰省すると、待ってましたとばかり爺が顔を出す。山菜採りや魚釣りに連れて出してくれるのだ。ご自慢のパジェロ(ジープ)には、長靴やナイフ、釣り竿を何セットも常備していた。

「――なにッ、おめだち釣りもしたごどねえのが。たまげだもンだな、東京は」といってさっそく近くの漁港へ出かけた。妻と小学生の娘には初めての海釣りだった。

 しばらく糸を垂れていたが、時間帯が悪かったせいか、まるで釣れる気配がない。

「サガナは、港の周りを回遊してるがら、そのうち釣れる」

 爺は断言した。何とか釣らしてやりたいという意気込みがあった。八月下旬の北海道の岸壁は、少々肌寒さを感じる。気づくと爺の姿がなかった。海に落ちたかと心配していると、反対側の岸壁をよじ登る姿があった。

「エサ、まいてきたどォー」

 下腹をさすりながら爺が戻ってきた。

 岸壁の外側には消波ブロックが積まれており、腹が冷えた爺はそこで用を足してきた。どういう格好で事をなしたか、その姿を想像しただけで、もう釣りどころではなくなった。

 ところがその後、面白いほどチカが釣れ出した。妻の竿にはサバまでかかった。

「サカナが逃げてきたンだ」と娘は大喜び。夕食にチカの天ぷらが出たが、なかなか箸が進まなかった。

 妻や娘にとって、爺はなくてなならない存在になっていた。加えて飛びきりのバカ話がついてくる。妻を亡くしてからの爺は、寂しかったのかも知れない。

 

 私の手元に、すっかり色褪せた新聞の切り抜きがある。「討ち入りの日、マチの話題に」という見出しで、五十代の爺が神妙な顔つきで巻物を読む姿がある。読めない巻物にポーズをとらされているその写真を目にするたび、思わず笑いが込み上げる。

 このメラ爺の祖先が、赤穂浪士事件にかかわっていた。

 義士切腹の際、細川越中守(熊本藩)邸にお預けになっていた義士のひとり、堀部弥兵衛の介錯を行ったのが米良市右衛門で、爺はその直系の子孫に当たる。今も泉岳寺発行の小冊子に、市右衛門の名が窺える。

 実はこの話、昭和三十年代に初めてわかったことである。それまで、細川家にかかわる家系であることだけはわかっていた。その判明した経緯が興味深い。

 昭和三十三年、私の曾祖母が亡くなった。続いて祖父が脳溢血で倒れ、その看病をしていた祖母がこれまた急死。爺にとっては、母親と姉を相次いで失ったことになる。たて続けの不幸に、これは何かあるに違いないと、神憑りの婆さんの神託を仰いだ。

 お告げは、謎めいていた。

「獣を殺める者がいる。倒れている。それは壁にくっついている。だから悪いことが起きたのだ」と何とも要領を得ない。みな頭を抱え込んだた。家中探したが見当がつかない。そうしているうちに、米良家に何年も開かれていない神棚があることに気がついた。

 恐る恐る開けてみると、中から真白いキツネが二体と巻物、それに細川家の家系図が出てきた。巻物は大層なもので、何が書いてあるのか誰も読めない。当時、町内きっての碩学であった収入役に読んでもらって右の一件が詳らかとなり、大騒ぎになった。

 爺は父親が五十九歳のときの子で、幼くして父親を失っている。ほかの兄たちも早世しており、残ったのは母親と姉たち、それに末っ子の爺だけだった。女は神棚に触ってはいけないという家訓があり、父親が亡くなってから数十年、神棚は放置されていた。爺は、役場に勤める傍ら狩猟を行う。神棚は壁にくっついており、中から出てきたキツネは雄と雌で、雌が倒れていた。お告げが解けた。

 それからが大変であった。毎年討ち入りが近づくたびに爺が引っ張り出され、地方のテレビに出演したり、新聞の取材があったり、爺はすっかり街のスターになってしまった。

 爺の家系は明治初年の熊本の反乱士族で、混乱の中で数多くの肉親を失っている。爺の父親は十一歳で家督を相続し、明治二十二年、二十四歳で渡道している。親兄弟を失った青年が、屯田兵に活路を求めたのだ。

 その後父親は、先妻、後妻合わせ十五人の子をなし、爺はその十五番目にあたる。十七番目かも知れないが、もう誰にもわからない。

 爺は饒舌である。しゃべり出すと止まらない。中でも西南戦争や熊本での士族の話を得意とした。その語りがひどく役者がかっており、子供たちには人気であった。おそらく孫のような我が子をひざの上に乗せた爺の父親が、昔語りをよくしたのだろう。

 そんな父親の影響か、何かにつけ「俺は九州男児だ」というのが爺の口癖だった。

「あれ、シュッちゃん、生まれ、浦河だべさ。道産子でしょ」

 母が混ぜ返すと、

「黙れ、無礼者! 細かいことはいうな」

 父親が熊本なのだから、当然自分も九州男児なのである。だが、九州男児がいかなるものか、爺にもよくわからない。

 あるとき例の調子で九州男児を口にすると、

「――すると肥後もっこすですな」

 といわれ、爺は面食らった。一筋縄ではいかない熊本の頑固者を「肥後もっこす」というらしいが、そんなことなどわからない。

「その通り。オヤジがサムライでごわす」

 急に鹿児島弁が飛び出す。

「ええッ! お父様が武士……」

 驚く相手に、「左様」と得意満面、もう気分はトノである。ドサンコ? そこらの馬じゃあるまいし……、爺にすれば「九州男児」の方が、収まりがよかった。先の新聞記事にも、米良さんは一歳のときに渡道し云々とある。記者を前に九州男児を振りかざしたのだろう。

 真っ赤なシャツを着てきた爺に、ずいぶん垢抜けたシャツだね、と褒めると、

「そこらの民、百姓とはわけが違う」

 と胸を反らす。札幌にいる私の妹が贈ったものである。まったく爺は憎めないのだ。

 年を重ねるごとに、爺はますます武士となった。幼心に焼きついている父親の姿に、自分を重ねていたのかも知れない。だが、ひとついえば十も返されるキク婆の前では、相変わらず頭が上がらない。

「アネにかがれば、何でもややっこしいこどになるがらな」と顔をしかめる。

 そのころ、細川家直系の細川護熙氏が総理大臣になった。首相がニュースに出るたびに、テレビの前に平伏して「ハッ、ハーッ、トノー」とやってみせる。メラ爺、人生の絶頂期であった。

 この爺のおかげで、我が家ではヒグマやエゾシカの肉には事欠かなかった。爺はいつも笑いの種を蒔いてくれた。夫を亡くした母にとって、爺は大きな心の支えだった。

 そんな爺も、数年前に軽い脳溢血を患ってからは、コケシのようにおとなしくなった。二人の息子は札幌にいた。親戚中がかわるがわる爺の面倒をみたが、遠慮するなといわれても、爺には窮屈だった。ひとりでは何もできないくせに、強がりばかりいっていた。

「オヤジ、そんなに頑張るな」

 見かねた息子が声をかけた。

 老いては子に従うか、そういって爺は重い腰を上げた。家も家財もきれいさっぱり甥に譲った。妻を亡くしたときですら気丈に振舞っていた爺が、息子の車に深く座ったきり、もう顔を上げられなかった。

 たまに帰る故郷の山や海は、昔と何ら変わらず私たちを迎えてくれる。だが、爺の抜けた穴はポッカリと開いたままである。

 爺は今、息子家族に囲まれながら、札幌で静かに暮らしている。

「オレももう八十三だァ。そろそろ逝ぐどォ」

 受話器の向うで強がりをいう爺の力ない口調に、思わず涙がこみ上げた。

 

                             小 山 次 男

 付記

 平成十三年四月の『大叔父』に加筆改題したものである。