Coffee Break Essay


 『米良亀雄と神風連』


(八)

 一挙の後、神風連敬神党は明治天皇制国家にとっての逆賊となった。凶徒、賊徒、暴徒などと呼ばれ、人々の嘲笑の的となった。残された家族は、ひっそりと息をしずめて生きなければならなかった。

 敬神党の死士の葬儀は暗葬礼といって夜間にひっそりと行われていた。「逆賊の身を白昼葬礼するとは官を恐れぬふとどきな振る舞い」であったのだ。

 逆賊の母となった亀雄の母キトは、一挙の二年半後の明治十二年四月に死んでいる。死亡年齢や死因は不明だが、夫四助が明治三年に四十五歳で亡くなっていることから、五十代前後であったと推定される。「有禄士族基本帳」によると、明治七年の「改正禄高調」では、米良家は一五〇石から二十八石七斗に改正されている。

 困窮の生活の中、逆賊の家族として世の嘲笑誹謗に耐え、幼い息子四郎次を残して死ななければならなかったキトの心痛は察するにあまりある。

 曾祖父四郎次つまり亀雄の弟は、五歳で父を亡くし、十一歳で兄を失い、十四歳で母を看取ることになる。さらに米良家の資料では、七歳のときに弟が夭折している。また、父親から家督を受け継ぎ、その後亀雄に家督を譲った叔父左七郎も、明治十年に西南戦争で戦死している。

 十四歳で天涯孤独の身となった四郎次は、どのようにして生きたのだろう。米良家資料では、夫野正寿に嫁いでいる姉はつの存在が確認できる。はつが四郎次の面倒をみたのか、それとも資料にはない縁戚の庇護のもとで養育されたのだろうか、つまびらかではない。兄亀雄の自刃から一年後の明治十年(一八七七)十一月十九日(除籍簿では十一月三日)、四郎次は十二歳で米良家の家督を相続している。

 明治十七年(一八八四)、四郎次十八歳の年に二歳年上の妻ツルを娶り、五年後の明治二十二年七月、妻と二人の幼子を伴って、屯田兵として北海道に渡っている。屯田兵制度は、北方の守りもさることながら、困窮士族救済のために設けられた制度であった。かくして肥後熊本藩士米良家は、時代の波に翻弄された果てに先祖伝来の地、熊本を後にするのである。今から一二〇年前のことで、四郎次二十四歳、神風連の乱から数えると、十三年後のことであった。

 その後神風連の精神は、日本史の底流に深く沈潜することになる。

 明治三十七年(一九〇四)の日露戦争後、官民一致の国家目標を失った国民の間には、一種の倦怠感と失意が広がっていた。社会主義者による天皇暗殺計画を企てたとされる大逆事件(明治四十三年)などがあり、神風連の純真無垢な忠誠心がにわかに注目されるようになる。

「敬神党は思想頑固、その行動凶暴なるに相違なきも、しかもその精神気魄の敬虔にして醇粋なる、真に欽尚すべきものあり」(『神風連とその時代』)と謳われ、逆賊であった彼らが、天皇制国家の思想的正統として位置づけられる。そんななか、大正十三年(一九二四)、太田黒と加屋に贈位がなされた。時代が彼らの精神を必要としたのである。かくして半世紀におよぶ潜伏期間を経、神風連は復権を見たのである。家族にとっては、逆賊の残累の無念がはれたのであった。

 神風連の乱から六十年を経た昭和十一年(一九三六)、二・二六事件が勃発した。陸軍皇統派の影響を受けた青年将校が、一四八三名の兵を率い「昭和維新断行・尊皇討奸」をスローガンに決起した。元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し腐敗が収束すると考えたのである。渡辺京二氏は二・二六事件の幹部のひとり、磯部浅一の言葉を著書の中で引用している。

「磯部が獄中で〈如何に陛下でも、神の道を御ふみまちがへ遊ばすと、御皇運の涯てる事も御座ります〉と書いたとき、彼は『廃刀奉議書』における加屋の口吻に戦慄的に合致していたのである。(中略)神風連と昭和十一年二月の反乱者とのあいだに存在する本質的な関連は、両者がともにこの国に導入された西欧的市民社会に対する鋭い違和の表現」(『神風連とその時代』)であったと述べている。

 さらに下って昭和四十五年(一九七〇)、三島由紀夫は「盾の会」の青年たちと東京都市谷の陸上自衛隊東部方面総監部へ討ち入り、同志の介錯により割腹自殺をする。いわゆる三島事件である。そのとき、営舎のバルコニーに立った三島は、檄文をばらまき自衛隊員を前に演説を行った。

「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」

 腕を振り上げ叫ぶ映像は、いまだテレビに映されるところである。演説は、自衛隊の決起と憲法改正による自衛隊の国軍化を呼びかけるものであった。

「われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎの偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗(こと)、自己の保身、権力欲、偽善にのみささげられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見ていなければならなかった……」

 三島のいわんとするところは国家に対する憂いであり、嘆き、憤りであった。明治九年に廃刀令が出されたとき、加屋霽堅は数千語におよぶ一大文書『廃刀奏議書』を書き上げている。単身上京してその奏議書を元老院に呈上し、その場で割腹する覚悟を固めていた。神風連の乱はその矢先のことであった。三島の割腹自殺は、加屋が果たせなかった死諫(しかん)の道を選んだものである。

 決起の朝、編集者に手渡した小説『天人五衰(豊饒の海・第四巻)』が、三島の遺作となった。この小説の第二巻『奔馬』で、三島は神風連を語っている。この小説の取材のため三島は熊本を訪れているのだが、とりわけ加屋霽堅に心酔していたといわれる。三島由紀夫四十五歳、ノーベル文学賞の有力候補と目されていた中での自殺であった。 (つづく)




                     平成十九年八月 小 山 次 男