Coffee Break Essay


 『米良亀雄と神風連』



  (七)



 神風連のその後を語ることは、自裁物語となる。

 県外の萩や秋月へ逃れ、再挙を図ろうとするものたち、再び鎮台にとって返し戦おうとするもの、意見は二分した。だがすでに、官兵による厳重な警戒態勢が敷かれ、県外への脱出はおろか再挙すら不可能な状況になっていた。

 一党は敗走の途次、または逃げ帰った自宅で探索の手が近づくのを知ると、もはやこれまでと縄目の恥を受ける前に自裁してゆく。神風連に関する著書をひもとくと、彼らが古式にのっとり従容として腹を切ってゆく様子が、丹念に描かれている。

 武士として当たり前のことなのだろうが、自宅に帰ったものも敗走しているものも、誰ひとりとして命が惜しいとは考えていなかった。再挙を秘めた敗走であり、追い詰められた末の自刃なのである。

 熊本鎮台から一里半のところにある金峰山に逃れた一団があった。秋風が傷口に染み入るのに耐えながら、次第に夜が明けてくる。痺れを切らした年少者たちは、「長老はなにをしておる、切腹か再挙か、いずれか」と迫る。集議の末、二十歳に満たない者は、自宅に返すことになったのだが、帰り着いた者たちも、結局は自決してゆくのである。十六歳の猿渡唯夫は、周囲の者が止めるのを振り切り「生きて何の面目あって地下の同志にまみえよう」と自刃している。

 自決を前に不幸をわびる息子たちを、両親もまた従容として受け入れる。お国のためにやったこと、立派に死ねと励ます。死に遅れて、見苦しいさまに陥ることがないようにという思いである。障子一枚を隔てた向こうで自決する息子たちを、息を潜めて見守るのだ。それが当時の士族の倫理であり、本分の達成を願う純粋な愛情であった。母親は、息子が武士として潔く死ぬのを願い、妻は、夫の見事な最期を妨げないつつしみを保った。

「彼女たちは、自分の見知らぬ世界で何ごとかをしでかした夫や息子たちが、その生涯の終わりの日に家に立ち帰ったさいに、自分の男たちの死を自分たちの了解可能な世界にしっかりとからめとったのである」(『神風連とその後』)。烈子は烈母によって生み出されたことを物語る。

 楢崎楯雄(二十六)の母は、息子の死骸を棺におさめる際、首と胴が一寸ほどしかつながっていなかったので、ひしゃくの柄を胴と首に差し込んで合わせ、継ぎ目を畳針で縫い合わせた。

 富永光子は、守国(三十五)、喜雄(二十八)、三郎(二十一)の三人の息子を失った。六十四歳の光子が三人の遺体を引き取ったとき、自決した守国と喜雄にはそれぞれ「本意であった」、「手柄であった」と述べたが、末っ子の三郎の斬殺された死体を見たとき、「さぞ無念であったろう」と打ち嘆いた。

 阿部景器(三十七)の妻以幾子(二十六)は、肥後勤皇党の鳥居直樹を兄にもち尊攘に感化されて育った。以幾子は志士として夫を大いに助けた。夫景器が腹を掻き斬るそのときに「お供いたします」といって自らの咽喉を突いた。桜山神社の墓碑には一二三士の墓碑のほかに、以幾子の墓も加えられている。

「内報によって警部新美吉孝は、巡査数名を率いて山へのぼって来た。中腹に至ったとき、慌しく駆け下りてくる猟夫があって、今、山頂で、六人の神風連残党が腹を切りかけている、と告げた。新美ははやる一同を制し、〈ここで一服して……〉と、一木の根方に憩(やす)んで煙草に火をつけた。一党の最期を全からしめようと思ったのである」(『奔馬』三島由紀夫)

 兼松群喜ら五名の慷慨の青年たちが、いよいよ自決しようとするとき、探索隊の姿が見えた。兼松群喜(二十四)、小篠清四郎(二十二)が歩み寄り、「いかにも自分らは一挙を起こした党類である。しかしながら、いまここで最期を決したところである。暫時お待ち願いたい。潔く割腹してお目にかける」というなり、五名は見事に果てた。若槻少尉が自らの処置を児玉少佐(にちの児玉源太郎大将)に報告すると、「ようでかした」と賞辞を与えられたという。兼松は兄弟二人、小篠は四兄弟そろって一挙に参加し、いずれも自刃している。

 神風連はいずれもひときわ豪勇剛毅な志士の集団なのだが、なかでも勇猛義烈、古武士の風儀をもっていたのが吉村義節である。吉村はほとんど肉体的苦痛というものを知らない人間であった。

 平素は暇さえあれば武技を練っており、あるとき体術を試みて誤って足の骨を折ってしまった。下手な医術のせいで歩行の釣り合いが取れなくなってしまっており、当時、整骨の名医であった井上謙斎を訪ねて治療を乞うた。もう筋肉が固まっておりどうにもならないと井上が告げると、「それでは困る。なんとかしてくれ」と執拗にいうので、井上は「二度折るなら治してやろう」と答えると、吉村は井上の目の前で即座に自分の足を折ってみせた。驚いた井上は「君、痛くはないか」と尋ねると、「痛いといえば、痛くないのか」という。「痛いといっても、痛さは同じだ」と井上が答えると「それならいうまい」といったという。

 金峰山を下り、鎮台再襲撃を諦めた吉村義節(三十二)、植野常備(三十六)、松井正幹(四十二)、古田孫市(二十六)が、自刃することになった。彼らはいずれも米良亀雄と同じ高麗門連に属していた。三人の介錯を吉村が引き受けた。三人目の古田のときに、さすがの吉村も手元がぶれた。疲労困憊だったのである。豪気の古田が下から「おそろしゅう痛かぞ、痛くないように斬ってくれ」と振り返ったので、顔を赤らめた吉村は「わるかった」と再び刀を振り下ろし、身首を異にした。

 激戦の後の山中彷徨と飢餓が重なり、三人の介錯を済ませた吉村は、目も眩(くら)むばかりの疲労を覚えていた。腹を斬って喉を突いたのはいいのだが、急所をはずしたらしくこと切れない。しまったと思って刀を引き抜いてまた突いたが死に切れなかった。朦朧とした意識の中で、指を気管につっこんで掻き毟っているところを捕縛された。

 結局、吉村は斬刑三名のひとりとなってしまった。その無念は、察するにあまりあるものがある。

  ふりすてて 出でにしあとの 小草には さひしき秋の 風や吹くらむ

 吉村義節の時世である。

 自首したものにも事情があった。木庭保久、緒方小太郎、高津運記の三名の身の処し方にその典型が窺える。緒方と高津が自刃をいい出したとき、小庭は「同志がみんな死んでしまったら、わが党積年の素志を誰が明らかにしますか、死は同じだから暫らくしのんで平生の志を法廷に述べ、然る後刑に死するも不可ではないでしょう」と主張した。緒方は「死すべき時死なねば死にまさる恥があるという。事ここに至ってなお生きるなどとんでもない、早く死のう」と繰り返すが、木庭も譲らず、死は易く生は難いといってきかない。そこで神慮を乞うと、自首と出た。何たる神慮かと憮然とした高津は、

  かもかくも 神のみことに そむかぬぞ ますらたけをの 道にはありける

 と歌い、緒方も決意して自首状をしたためている。


 天皇のために立ちながら、その天皇の軍に誅殺されるという髪の毛の逆立つような無念を秘めて彼らは死んでいった。腹に突き立てた短刀を真一文字に引き、返す刀で咽頭を突いて打ち伏した。彼らは、日本古来の武士として従容と死んでいったのである。日本の古典的切腹は、この事件をもってその歴史を閉じたといわれている。 (つづく)





                     平成十九年八月 小 山 次 男