Coffee Break Essay


 『米良亀雄と神風連』


  (六)


 私が入手した荒木精之氏(明治四十年熊本生まれの小説家、歴史家。昭和五十六年死亡)の三冊の著書に見る米良亀雄に関する記述は、次の通りである。


『神風連烈士遺文書』(昭和十九年 第一出版協会刊)

「米良亀雄。名は実光、当夜歩兵営にて重傷し、岩間小十郎宅に退き自刃す。年二十一」


『神風連実記』(昭和四十六年 人物往来社)

「米良亀雄。米良家は百五十石取りの家であった。武道にすぐれ、慷慨(こうがい)の心ふかく、一挙のさそいをうけて欣然(きんぜん)参加し、敵弾を膝にうけ、刀を杖ついて本陣に退き、岩間邸にうつって自刃した。年二十一」


『誠忠神風連』(昭和十八年 第一藝文社刊)

「米良亀雄。墓は熊本市本妙寺常題目墓地にある。名は実光。家は島崎にあり兼松群喜・繁彦ら近くにありて最も親しく高麗門連に属し、尊攘の志あり。一挙のことあるや蹶然(けつぜん)起つて参加し、鎮台歩兵営襲撃にありて奮戦し、弾丸にあたって重傷をうけ、岩間小十郎宅に退き、官兵捜索に来るを見て立川運、上田倉八、大石虎猛、猿渡常太郎、友田栄記らと共に自刃す。年二十一」


 荒木氏は昭和十六年頃より、神風連の乱に参加した者の墓を、凄まじい執念で探索している。その様子は『誠忠神風連』の序に語られている。

「私はここ数年来、神風連に深く傾倒しているものである。私にあっては世のつねの郷土史家風な興味や研究からではなく、み国の切迫した内外の諸情勢を深慮するところに源を発し、道の一筋を世に明らかならしめたいひそかにもつあつい願いに外ならなぬ。その故に昭和十六年の夏より思い立って神風連烈士百二十余士の墓さがしをもはじめたのであった。墓地という墓地をめぐり、古老や身寄りをたずね、草叢山野をさがしつづくること一年有半、まさに湮滅(いんめつ)に瀕していたものを、その直前に発見することが出来た。かかる狂人のごとき私の仕業も、私にしてみれば必死のみそぎであり、また行であった」

 荒木氏には、神風連探索にかかわる数首の歌がある。

  夏ふたたび めぐりてにじむ 汗をふき さがしつづくる み墓のありど
  としよりを あるは遺族を たづぬなど わが墓さがし 墓地のみならぬ
  志士の墓 さがしあぐみて その夜には 夢にみしといふ 遂げしめたまへ

 亀雄の墓を本妙寺常題目の墓地に探し当てた荒木氏は、その時の感慨を二首の歌に託している。

  藪をわけ さがせし墓の きり石に 御名はありけり あはれ切石
  まゐるもの ありやなしやは 知らねども 藪中の墓 見つつかなしえ

 さらに墓碑銘は次のように刻まれているという。

  「     明治九年
   (正面) 米良亀雄実光墓
        旧暦九月九日卒」

 亀雄に関する記述の中に「蹶然起って参加し」「欣然参加し」とある。広辞苑によると「蹶然」とは、「地を蹴って勢いよく立ち上がるさま。〈―として起つ〉」とあり、「欣然」は、「よろこんで快く物事を行うさま。〈―として死地に赴く〉」とある。亀雄は決起の知らせをその直前に聞き、即座に応じたことが窺える。

 『忠誠神風連』の記述にもあるように、亀雄は敬神党ではなかった。当時、熊本の高麗門にあった高麗門連という郷党に所属していた。

 高麗門連は百石から四、五百石の家禄の士族二十二名からなる一団で、植野常備(つねとも)が率いていた。敬神党とは気脈相通じるところがあり、一挙の際には協力提携するという盟約ができていた。ほかに通丁連や保田窪連などからも一挙に参加している。

 また、亀雄の死亡日が資料によりまちまちである。まず、神風連一二三士の墓碑がある桜山神社の墓石(真墓ではない。遺骸はそれぞれの家の墓地に埋葬)には「米良亀雄之墓 明治九年十月廿八日自刃 年二十一」(『神風連実記』)とある(これは著作時の誤植の可能性もある)。一方、明治七年の旧熊本藩「有禄士族基本帳」では、「一、(明治)九年十月二十六日(米良亀雄)自刃」となっている。だが、「米良家法名書抜」には「明治九子 十月廿五日 戦死」とあり、荒木氏が探し当てた本妙寺常題目の墓地の墓碑銘には、同じく「明治九年 米良亀雄実光墓 旧暦九月九日卒(新暦二十五日)」となっている。

 岩間小十郎宅の座敷で自刃した長老の上野堅五や玄関で共に自刃した友田栄記、立川運、上田倉八らの死亡日がいずれも二十五日(桜山神社の墓碑銘)とあることから、亀雄の死亡日も同じく十月二十五日と考えて間違いないだろう。

 亀雄がどのような人物であったか、興味深いところだが、それを語る資料がない。そんなあるとき、近世史家のS氏から徳富蘇峰の自伝に亀雄に関する記述があることを伝えられた。亀雄の素顔を知るうえで、貴重な資料である。

「……また時々付近の神風連から(蘇峰が寄宿していた塾にむけて)石を見舞われたりしたことがあった。先生の塾の程遠からぬところに、兼松某、米良某など、いずれも神風連の荒武者がいた。彼らは明治九年の暴動にいずれも切腹して死んだが、予は途中彼らに出会(しゅっかい)することをすこぶる危険に感じていた。さればなるべくそれを避けていたが、時たま余儀なく出会いせねばならぬ場合にも遭遇した。彼らはことさらに横たえる双刀を、前に一尺ほども突出して佩(はい)し、結髪はもちろん、大手をふって途中を歩き、もし万一まちがって彼らにさわりたらば、たちまち打つとか殴るということになるから、さわらぬ神にたたりなしで、なるべく近づかないことにした。予は仕合せに一度も彼等にいじめられなかったが、しかしそのためには、かなり心配をした」(『蘇峰自伝』)

 渡辺京二著『神風連とその時代』ではこの一文の引用に続けて「これは明治五、六年のことであり、このとき米良亀雄は十八歳、兼松群喜は二十歳ぐらいになる。両名とも九年の一挙に敗れた後、自決した」と記されている。

 亀雄の素顔は意外なことに、恐ろしく凶暴な輩であった。数多くの神風連の乱参加者が、がなにがしかの辞世を残しているのに、亀雄には資料がない。蘇峰に恐れられていた兼松群喜でさえ、

  けふ迄も 待兼しつつ 武士(もののふ)の打ちとけてこそ 嬉しかりけれ

 と歌っている。

 亀雄の辞世などの資料が残っていないのは、明治二十二年(一八八九)に十歳年下の弟四郎次が熊本を引き払い、北海道に渡ったことにほかならない。神風連の乱から十三年後のことである。荒木氏が昭和十六年前後に神風連の探索をしたときには、四郎次が去って半世紀以上の歳月が流れていたことになる。

 大叔母キクの幼い頃の記憶に、大きな木箱に入った夥しい数の古文書が自宅にあり、父四郎次が大切に保管していたという。おそらくその中には亀雄の手がかりとなる資料も含まれていたのだろう。だが、キクの記憶も七十年以上も前のことであり、残念ながらそれらの文書は、今に伝えられていない。亀雄の血を受け継ぐものにとって、荒木氏の二首の歌はせめてもの慰めである。 (つづく)




                     平成十九年八月 小 山 次 男