Coffee Break Essay


 『米良亀雄と神風連』



  (五)



 次々と倒れてゆく者が近隣の民家に運ばれてゆく。そんな中、参謀の富永守国、広岡斎(いつき)らが、上野堅五を戸板に乗せ、本陣の愛敬正元宅に引き上げると、

「弟の富永喜雄(つぐお)をはじめ、管八広(すがやひろ)、今村栄太郎、松尾葦辺(あしべ)、大石虎猛(とらたけ)、米良亀雄、猿渡常太郎、渡辺只次郎、友田栄記らがそこここに倒れ、呻吟しており、それらの間を立川運(はこぶ)や上田倉八、青木又太郎らが介抱してまわっていた。

 富永守国は、弟の喜雄が深手をうけて苦痛をうったえているのを知ると、じっとしておれず、もっと安静な場所におきたいと喜雄の名を呼びながら自ら背負い、そこからほど近い鹿島甕雄の家にうつし、また吉岡の手にしていた太田黒の御軍神をとって鹿島家に安置した。この時、管八広や大野昇雄らも自らの刀にすがってついてきた。大野はつい今しがた上野堅五を愛敬宅に運んでくる途中、敵の乱射する流弾に傷ついたのである。(略)

 そのうち夜は段々あけてくるが富永からの連絡もなく(学校党から反乱に呼応するという情報があり、加勢が来ないのでその確認に赴いていた)、その他どこからも何のたよりもない。吉岡はどうしたことかと焦燥し、せめて上野翁をもっと静かなところに移そうと、ふと岩間小十郎の家を思い出し、立川運や上田倉八らの手をかりてそこに移してやった。この時両眼を失った大石虎猛や米良亀雄、友田栄記らも刀にすがったり、杖をついたりしてあとを追ってきた。すでに瀕死の重傷の松尾葦辺、猿渡常太郎、渡辺只次郎、今村栄太郎らも暗中必死で身を動かし、岩間の家に近い藪中に入っていった。

 岩間邸はもと千五百石どりの大身で、広い邸宅であった。勤王の志あつく、神風連とも昵懇(じっこん)なものが幾人となくいた。その夜変動を知った岩間は家族の者は他に避難させ、みずからは北岡御邸に入って、家には下男が一人いるきりであった。吉岡軍四郎はこの家にくると、しばらくお宅を拝借したいといって上野翁を座敷に入れ、大石や米良、友田らも上がりこみ、吉岡軍四郎、立川運、上田倉八らはしばらくここにあって数時間にわたる歴史的動乱の中にしばし骨身をやすめるのであった」

「その日の朝、藤崎宮周辺、愛敬宅、岩間宅、鹿島宅などを探索したのは坂本少尉の率いる一隊であった。愛敬宅からは、種田少将、高島参謀長と、太田黒の首が発見された。この探索に同行した巡査の報告によると、


 廿五日朝岩間小十郎方に賊徒潜伏致し居り候段通知により兵員同行、表と裏門より踏みこみ候。凶徒二名は裏手の竹藪に逃げこみ候に付発砲いたす際自刃致し居、家は厳重に戸締りをいたし居るにつき、石で毀ち、間内に踏みこみ見候ところ座敷へ一名、玄関へ四名自殺或は割腹いたし居るに付、屋敷内精々吟味候ところ藪の中に五名あり、中今村栄太郎自殺いたし、未だ存命なるを以て捕縛、鎮兵より連れ越し候事。  三等巡査 河野通誠


 検死によって、座敷にあったのが一党の長老上野堅五(六十六)、玄関にあったのが友田栄記(二十)、立川運(二十九)、米良亀雄(二十一)、上田倉八(二十四)であった。また藪中が渡辺只次郎(二十)、大石虎猛(二十三)、今村栄太郎(二十九)で、ほか二名は坂本少尉らがここにきた時、すでに絶命していたと見られる松尾葦辺(二十九)と猿渡常太郎(二十二)であった。このうち立川や上田はともに営中で力戦し、敗れると退いて負傷者を扶けて傷の手当などに手をつくしてやり、そして探索の手がせまったのを見て一同ともに自刃したものである。

 また同邸近くの鹿島甕雄家には深傷をうけて呻吟していた富永喜雄(二十八)、脚を撃たれていた大野昇雄(二十八)、管八広(二十九)、それらを看護していた青木又太郎(二十一)らがいたが、これらも坂本少尉の一隊の踏みこむのを知り、このままにして敵手にかかる前に相共に死のうと潔く自刃して果てた」

 以上は、荒木精之氏の『神風連実記』からの引用であるが、徳富蘇峰著『近世日本国民史』九四巻にも同様の内容がある。重複するがこれも引用する。

「これより先大野昇雄・吉岡軍四郎の二人は、太田黒を介錯し、一人はその首級を、一人は軍神を奉戴し、遺命に随って新開なる太田黒の家に送り届けんとするに際し、先づ其旨を本部に報告すべく六所宮の五十六段を上りかかる折しも、富永守国に出合した。彼は三人に打向ひ、今や諸郷党の応援云々の報あり、此方から使者が出て向ってゐる。追ては何分の返事が来るであらう、それまでに予は同志死傷の模様を視察す可く藤崎宮から下り来たところである、予は先づ上野翁を、総集所に迎へん、二君も共に来給へと誘ふところに、広岡齋は尋ね来り、富永を一見するや、直ちに一封の書状を渡した。これは広岡が萩から持参したる前原一誠の返翰であった。此れより更らに広岡をも加へ、法華坂に馳せ向ひ、上野堅吾を扶(たす)けて、一枚の戸板に載せ、富永・吉岡の三人にて擔(かつ)ぎ、太田黒の首級と、軍神とは大野に負持せしめ、本陣へと急ぎ行いた。此処には富永喜雄・菅八尋・今村栄太郎・松尾葦辺・梅本雄太・大石虎猛・米良亀雄・猿渡常太郎・渡辺只次郎・友田栄記等の深手・浅手の面々あり、別に立川運・上田倉八・青木又太郎等の健全者も介抱の為め付随してゐた。富永は其弟喜雄の深手を知り、せめて今少し安適の場所をと、同志鹿島甕雄の宅に自から負うて赴いた。管・大野・梅本等もまた踵(つ)いて来た。大野は本陣に向ふ途中、敵の乱射の為めに傷いたのだ。続いて荘野彦七・青木又太郎等又追うて来た。富永守国は本陣に取って返し、尚ほ吉岡等に向ひ、北岡邸からの返事が、今に来ぬのは訝(いぶか)しい、よって自分は往て見る、何分のたよりは屹(きっ)とする、諸君はそれまで上野翁を看護して貰ひたいと申し残し、尚ほ軍神を鹿島宅に安置せんと出掛けた。待つ間程なく夜は明けた。されど富永よりの消息はない。吉岡は此に於て上野翁を安静なる場所即ち岩間小十郎の宅に移さんと欲し、立川・上田に手伝はせ、此処に移した。岩間家は一千五百石の大身にて、邸内も広く、且つ総集所愛敬宅の隣家だ。先代小太郎は勤皇の志士、当主小十郎も亦た有志の徒、当夜は家族を他所に避難せしめ、自分は北岡邸に出掛け、留守中であったが、吉岡は遠慮なく上野翁を座敷に連込んだ。大石・猿渡・米良等も続いて上り込み、立川・上田等もまた身を寄せた。富永の消息がなかったのは、彼が北岡邸に赴きたる際は、同志一同立退きたる跡にて、遂ひに其の要領を得るに遑(いとま)あらなかったのだ」

 とあり、続けて亀雄ら自刃の様子が語られている。

「坂本少尉は一分隊を率ゐて藤崎八幡宮の社内へ探索に出掛けた。頃しも富永守国の弟三郎は、二十一歳の壮年にて痛手のまま此処までたどりつき、祠掌青木新次郎は、彼を神饌殿に蔵(かく)したが、端(はし)なく発見せられて、銃槍の下に死した。少尉は進んで愛敬宅に踏み込んだ。一個の死屍を発見した。それは松尾葦辺が深手を負ひ、同志に扶けられ此処まで来て、遂ひにコト切れたのであった。一間隔てたところに気息奄々(えんえん)の士がある。それは営内に切入って打死したる今村健次郎の兄今村栄太郎だ。官兵は彼を擒(とりこ)にしたが、やがて息絶えた。坂本少尉は、尚ほ屋内深く入りこんで捜索したが、吉岡軍四郎が隠し置きたる総帥太田黒伴雄の首級が出て来り、尋(つい)で種田少将・高島参謀長の首級が出て来った。少尉は此の二首級を収め、出て眼を戸外に配れば、竹藪伝ひに草踏み分けたる跡がある。さてはと覚った坂本少尉は、分隊を指揮して竹藪伝ひに岩間宅に押寄せると、重傷にて篁(たけやぶ)中に倒れたる渡辺只次郎は自から短刀を引き抜き、吭元(のどもと)に突き立たると同時に、官兵の銃剣に乱刺せられた。此の物音に立川運・上田倉八・猿渡常太郎・大石虎猛・米良亀雄・友田栄記等何れも枕を並べて自刃した。一党の長老、上野堅吾は太股二ヶ所貫かれながら、床柱に憑(よっ)てゐたが、此を見て扠(さて)も壮烈の最期よ、吾老いたりともいかで後れを取る可きぞと、自から刃に貫かれて六十六歳の寿命を了へた。斯くて此の報鹿島宅に伝はるや、負傷者の富永喜雄・大野昇雄・菅八尋何(いず)れも自刃した。富永二十八、大野三十、菅二十九。之を見たる二十一歳の青木又太郎は、荘野彦七を顧みて、イザ御介錯をと、自から屠腹(とふく)した」

 米良亀雄は、熊本城二の丸にあった歩兵第十三聯隊の歩兵営付近で膝を被弾し、敬神党の本陣である愛敬正元宅に退却し、第三隊の参謀長富永守国らとともに鹿島甕雄宅に移動し、さらに岩間小十郎宅に移った。夜が明けて探索隊の気配を察知しもはやこれまでと、岩間宅の玄関で自刃したのである。

 かくして神風連の乱は三時間にわたる激闘の末、鎮圧された。凄烈な一夜であった。一党一二三名のうち、戦死したもの二十八名、自決したもの八十七名、死刑三名、禁獄四十三名(獄中死三名)と、七割が死亡している。この死者の割合は、他の士族反乱には見られない特異な数で、三十代の者が三十三名、二十代に至っては六十三名を数える。

 一方、県庁関係者を含めた鎮台側の死傷者は、二五六名にのぼる。この中には、流れ弾などで巻き添えをくらった一般市民も含まれている。 (つづく)




                     平成十九年八月 小 山 次 男