Coffee Break Essay


 『米良亀雄と神風連』



 (四)

 敬神党が討ち入ろうとしたのは熊本鎮台である。鎮台というのは明治四年、地方にうごめく反政府勢力を威圧し、武力で鎮圧する目的で作られたものである。当時熊本には、熊本城を本営とする熊本鎮台があった。



 敬神党は、三つの部隊に分かれた。

 第一隊は三十名で、さらに五部隊に分かれ、要人襲撃を担当した。第二隊は、約七十名で本隊として鎮台の砲兵営(砲兵第六大隊、約三二〇名)の襲撃、第三隊も約七十名の人員で同じく鎮台の歩兵営(歩兵第十三聯隊、約一九〇〇名)の襲撃に当たった。さらに鎮台には、工兵、輜重(しちょう)兵(軍隊の荷物弾薬等をほろ車で運ぶ兵)の二小隊があったので、総勢では二三〇〇名にのぼる。一方の敬神党は、加勢も含め二百名足らずであった。武器は、焼玉と竹筒に仕込んだ灯油、それと槍刀のみである。

 彼らの軍装は、甲冑をよろうもの、腹巻をまとうもの、烏帽子直垂姿や紋付袴とまちまちであった。一番多かったのが常服短袴の扮装で、草履脚絆、腰に双刀をたばさみ、白布の鉢巻に白木綿の襷をあやどっていた。また、乱戦中「天」と呼べば「地」と応ずる合言葉をつくったり、白布の小片に「勝」の字を付した肩章を全員につけさせた。

 この日彼らは、小集所に落ち合い、夜更けを待って総集所である本陣となった愛敬(あいきょう)正元宅に集合することになっていた。ほとんどのものが家族に決起のことを明かしていない。神社の例祭の準備がある、または祭典に出かける、断食祈願に出かけるから三、四日は戻らないとそれぞれに口実をつけて家を出ている。老親を残すもの、幼子を残すもの、新妻を残すもの様々であった。今生の別れをさりげなく告げ、密かに辞世の歌を残して出たものも数多くいた。

 なかには、その挙動の不審を質され、親の反対を押し切って出たものもいた。別れの杯を交わし、負けたら速やかに割腹し、逃げ隠れして父母妻子に恥をかかすなと励まされたものもいた。

 弦月が金峰山に傾くころ、愛敬宅の本陣を出た一党は、藤崎八幡宮の社前に集結した。一党の前に立った太田黒の背には、先師桜園ゆずりの軍神八幡宮の御霊代が背に捧持されていた。秋の夜風にはためく幾本もの旗の中、首領太田黒伴雄の太い声が響き渡った。満を持した一党の静寂を破るのは、檄文を読み上げる副首領加屋霽堅の大音声である。明治九年十月二十四日午後十一時、陣貝を合図に武者振るいする一党が怒涛のごとく動き出したのである。

 

 第一隊、第二隊の攻撃状況の詳細は省くが、第一隊はほぼ当初の目的を達成し、加勢のために鎮台に向った。余談だが、一党が襲った五人の要人のひとり、陸軍少将種田政明はそのとき愛妾小勝と一緒に眠っていたところを斬殺された。後日、小勝が東京の親許に「ダンナハイケナイ、ワタシハテキズ」と打電した話は有名で、まだ電報が一般市民に浸透していなかった当時、簡潔に要点を述べる伝文の模範と賞された。以降、電報が普及するきっかけをつくった。

 砲兵営を攻撃した第二隊も寝入りばなを襲ったため、何が起こったのかわからぬまま、兵たちは大混乱を起こし、次々に斬られまたは遁走し、討伐は完全に成功した。勢いを得た彼らは、隣の歩兵営を襲撃する第三隊の加勢へ向う。米良亀雄は、第三隊に属していた。



 荒木精之の『神風連実記』から第三隊の襲撃の様子を引用する。

「二の丸は歩兵第十三聯隊一千九百有余名のこもる歩兵営の所在地であった。これを襲ったのは参謀長富永守国を中心に、福岡応彦(まさひこ)、吉海(よしがい)良作、深水栄季の諸参謀、荒木同(ひとし)、愛敬(あいきょう)正元らの各長老をはじめとする七十余名の第三隊であった。本陣に近い西門に攻め寄せたが堅く門扉が閉ざされている。沼沢春彦が柵にとりつきよじのぼって「一番乗り」と叫び、飛びこんで一哨兵を斬殺した。荒木同が用意した一筋の縄梯子を柵に投げかけると、我も我もと先を争ってとりすがったため、縄は途中で切れてしまった。荒木の下男久七が梯子代わりにおのが肩をたたいて「これを踏台にして行きなされ」とさし出したので、次々に久七の肩を踏み台にして飛びこえ、柵門を開いたので一同ドッと駆けこみ、兵舎のあちこちに用意の焼玉を投げこんだ。

 たちまち火は燃え上がる。兵舎は寝耳に水で上を下への大騒ぎ、兵舎の出口には神風連がかまえて片っ端から斬りまくる。何がおこったか、敵は何者か、全然見当もつかぬので、一同恐怖にうちふるえ、ただもう身をまもるに汲々たるありさまであった」

「聯隊側では必死になって防戦しようと指揮督励するが、片っ端から一党に斬りこまれ、着剣して防ごうとしても舎内の混乱の収拾がつかず、弾丸はその前兵士の騒動があって以来、一切持たせていないのでどうにもならぬ。そのうち聯隊本部、第一、第二、第三中隊舎はすでに燃え上がり、営庭を白昼のように照らしだした。その中を、白鉢巻をし、あるいは甲冑をつけ、あるいは烏帽子直垂をきこみ、刀槍をもった者たちの活躍にまかせ、軍は射つに一弾もなく、斬るに刀なく、二千の鎮台の兵も戦うに処置なしのあわれな状態であった」

 第三隊は、一九〇〇名の敵に対し、わずか七十名で斬り込んだのであった。奇襲攻撃とはいえ多勢に無勢、この優勢な状況は長くは続かなかった。弾薬庫を開いた聯隊側の反撃が始まったのである。富永守国率いる第三隊は、たちまち形勢不利となり、いたずらに敵弾の餌食となってゆく。兵営の炎が白昼のように堂内を照らし、それが逆に鎮台側を有利にしたのである。

 長老の斎藤求三郎が陣没し、副首領の加屋霽堅が戦死する。幹部が次々と倒れてゆく中、加勢に加わった総帥太田黒伴雄はひるまず先頭に立って奮迅するので、それに励まされた同志たちも喊声(かんせい)をあげて斬り込んでゆく。そんな太田黒もついに重症を負う。敵弾が胸を貫いたのである。

 民家に担ぎ込まれた太田黒は、指示を仰ぎに来る同志に指令を発していたが、もはやこれまでと観念し、しきりに介錯を促す。最初は躊躇していた同志達も、やむなく大野昇雄(ひでお)の介錯により絶命する。太田黒四十三歳であった。 (つづく)



                     平成十九年八月 小 山 次 男