Coffee Break Essay


 『米良亀雄と神風連』

 

  (三)

 倒幕の後、悲願の王政復古が実現した。だが祭政一致とは名ばかりで、文明開化の名のもとに、天下の大勢は洋風欧雨の方向にすすんでいた。

 明治四年八月、「自今散髪脱刀勝手たるべし」という布達が発せられる。元来、保守化傾向の強かった熊本にも、丸腰、断髪、洋服、洋帽姿の開花風に倣(なら)うものが出てきていた。

 そんな中で敬神党は、我関せずと腰に両刀を佩(はい)し、頭に総髪を結び、一切の洋風を排し、洋物を退け、旧来の国風を固守していた。

 彼らにまつわる珍談の多くは、このころ生まれたものである。あるものは、電線の下を通るとき扇子を広げたり、紙幣を箸で挟んでやりとりしたりした。また、常に袂に塩を携帯し、洋装のものに出会うと汚らわしいとまいて歩いていた。これら開化期の有名な話は、彼ら敬神党による奇行である。

 一党を憤激させた政府の処置の第一は、いうまでもなく明治維新による開国である。彼らにとって攘夷とは、先帝の意志であった。第二は、明治四年に重鎮河上彦斎が反政府の志士を匿(かくま)ったとして斬殺に処せられたことである。刑の軽重に対する憤懣もさることながら、わが国古来の武士に対しての通則である割腹自裁の式をもとらせず、草賊の輩になす斬殺の法をもって処刑したことに憤激したのである。三番目が、明治五年の神祇省の廃止である。期待した祭政一致が、擬態に過ぎなかったということである。四番目は、明治八年に政府がロシアとの間に交わした千島樺太交換条約である。新政府は精神ばかりではなく、国土すら売ろうとするのか、という憤りである。そして決起に直接つながる最大の大憤激は、明治九年三月の廃刀令の布達であった。

 廃刀令とは「今後は、大礼服着用の者、軍人、警吏等正規の制服を用いたものの外は、一切刀剣を帯ぶることはならぬ」というものである。廃刀令の布告は、神州古来の風儀を固守してきた彼らに決定的なとどめを刺した。

 

 彼らは相次いで首領太田黒のもとに集まった。「もはや我慢がなりませぬ。死なせて下さい」と詰め寄った。「刀は武士たるものの魂であり、帯刀は神州古来の美俗であると信ずる者、刀を奪われては生き甲斐もない、これは堪ゆるべからざる圧迫だ」(『神風連実記』)

 一般の武士にとっても廃刀令は、「武士の魂」を奪うものであり、特権の剥奪でもあった。敬神党にとっては、士族の特権を超えた神州日本の象徴であり神器であった。廃刀令は、彼らがよりどころとする理念の根幹を否定したのである。

「国を思う士族たちが刀を帯して何が悪いか。彼ら士族はすでに俸禄を離れ、一文の支給も受けていない。そんな中で君国を憂い、身家を忘れて忠誠を尽くそうとしているのである。そのどこがいけないのか」(『神風連実記』)

 彼らの憤激は、もはや臨界点に達していた。

 帯刀が禁じられた後、彼らは刀を手に持って歩いたり、袋刀として携えた。帯刀さえしなければいい、という苦肉の策である。廃刀令布達の狙いは、反政府士族勢力の弱体化にあったことはいうまでもない。

 廃刀令の三カ月後の明治九年六月、追い打ちをかけるように断髪令が発せられた。「なぜ我々が西洋文化に屈しなければならないのか。刀を奪われ坊主にされ、捕虜も同然ではないか」彼らは歯噛みし、こぶしを握り、髪を逆立てて憤激に打ち震えた。

 これまで敬神党は、決起の願をたて二度のうけひを行っている。最初は明治七年の佐賀の乱のときである。だが、いずれも神慮にかなわなかった。二度目のうけひで不可と出たとき、一党は落胆のあまり言葉を失った。さらなる神明の冥助を祈願すべく励むのである。

 なかでも太田黒は、「七日間、あるいは十日間の辟穀、断食をなし、また、あるいは五十日間、百日間の火の物断ちを厳修する」など、激烈なものであった。「唯天地神明の応護によって始めて尊攘の大功を全うすることができる」という信念に貫かれた行動である。

 二度目のうけひで不可と出た一党は、やむに止まれぬ思いながら、さらなる結束を神前に誓った。そのひとつは、「わが国神聖固有の道を奉じ、被髪脱刀等の醜態決して致すまじく、たとえ朝命ありとも死を以って諫争(かんそう)し、臣子の節操を全うすべき事」というものであった。廃刀令は、この誓いの一年後に出たものである。ついに行き着くべきところまで行ってしまった、という感があった。

 

 敬神党の構成要員は、士族社会の中でも最下級の軽輩士族がその中核をなしていた。百石取りのいわゆる「お侍」は、彼らの中では上士と認識されていた。つまり彼らは、封建社会崩壊の衝撃を最も強く蒙る立場にいた。彼らの憤懣の背景にはそんな事情があった。

 隠忍に隠忍を重ねていた太田黒が重大決意を行う。

「このままでは国体の廃も同然である。そしてわれは泉下の同志に申しわけもたたなくなる。諸君のかねての希望のごとく、この際天下のために大義のため旗をあげようと思う。さすれば四方忠勇の士、必ずや響のものに応ずるごとく応ずるにちがいない。たとえわが党利あらずことごとく死するもまた本懐ではないか」(『神風連実記』)

 深夜、太田黒が潔斎して神前にすすみ、精誠を込めてみたびのうけひが行われた。一同が固唾を呑む中、神慮はとうとう可と出たのである。さらにその後のうけひで、決行日が十月二十四日(陰暦九月八日)、月の入り(午後十一時)を合図にとなった。

 彼らは天皇のために立ちながら、天皇の軍隊と戦わねばならなかった。戦いに破れれば逆賊となる。逆賊の謗(そし)りを覚悟で西洋文明の侵入、つまり異神の侵攻から守らねばならなかったのが、上代から連綿と受け継がれてきた民族神なのである。その一念が、彼らを突き動かした。

 神明を得た彼らは、神軍となった。「成敗は問うところではない。ただ勇往奮迅するのみ」であった。太田黒伴雄を首領、加屋霽堅を副首領と仰いだ一党一七〇名は、ついに死に場所を見つけたのである。

 太田黒のもとで開かれた最後の軍略会議で、長老上野堅五が長兵の利を説いて火器を用いるよう主張したが、「洋風の兵器は我が神軍には不要」と一蹴された。もっとも焼き討ちに使う焼玉などは用意されたが、彼らは古来からの刀槍だけで起ち向かったのである。近代装備された軍隊に素手で挑んだも同然で、この一件だけとってもこの反乱が無計画で無謀であったことがわかる。だが、それは現代の我々の感覚によるもので、拙速を尊び巧遅を喜ばないのが武士たるもので、話が決するや否や速やかに同志を糾合し、敵地を探ることが肝要であったのである。勢いに乗じ一気呵成(かせい)に敵営を乗っ取れば、盟約を交わしていた地方の同志たちが次々に立ち上がると考えたのである。

 だが、彼らの行動は時代の残滓が武士の一分をたて、武士として死ぬために、最後にたどりついた究極の選択であった。

 決起の夜、浮き立つような足取りで総集所に集まった彼らを、渡辺京二氏は『神風連の乱とその時代』の中で次のように記している。

「……時流にそむき、しかも時流こそが勝利者かも知れぬという絶望感に襲われながら生きるものの、やっと時代に否認を完了して死ぬことができるというよろこびが踊りださせた一歩でもあったにちがいない。時代にそむいて生き続けるのには超人的な意志が必要とされるゆえに、彼らはほっと肩の荷をおろしたのである」 (つづく)

 

                     平成十九年八月 小 山 次 男